伝える前に諦めて離れてしまう。
私は個人で仕事をしているのですが。
一部の仕事の関わりの人や、友人に、仲良くなると同時に雑に扱われてしまうことがあります。
具体的な話ですと、
打ち合わせ、待ち合わせのドタキャンが続いたり。他の人の前で馬鹿にするような態度を取られることがあります。
ドタキャンをされた時、起きてしまったので仕方ないので何も言わないのですが。許すというよりは、そういう人なのだと諦めてしまっているように思います。
態度にしても馬鹿にするような態度をとる人を怒ったり、何かいう事も出来ず、この人はこういう態度をとる人なんだなー残念だなと諦めてしまいます。
自分がされて悲しかった事とか、ドタキャンについて意見することはせず、もうそういう人なんだと諦めて、何も言わず距離をおきます。仕事関係の人であれば、その人に仕事を依頼するのを辞めたりします。
相手に何か伝えて喧嘩になるのも嫌というか面倒で、何も言わず離れてしまい、去り際は、私も少し冷めた態度をとってしまうように思います。
ドタキャンをされた時や、酷い態度をされたことを相手に何も伝えず関係を絶っていくのが正しいのか、少し最近悩んでいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
やさし"過ぎ"、譲り"過ぎてはいないか"を意識していくこと。
拝読させていただきました。
人と思考、思慮はさまざまであり、同じものはありません。そこには共感や価値観というものや、目指す目標など同感できる類のものを共有できる人を仲間と呼んでいる人々が大半の社会です。
社会というものは、競争社会ともいえます。出世したい人、稼ぎたい人、讃えられたい人、評価されたい人など。これは、いわゆる自己報酬と同じものであり、欲求を満たしたいことでもあります。
それだけ、人々の視線・視野から人間観を考察している中で、劣等感を感じれば他人より優劣感をとることで安心を獲得する人たちも少なくありません。
Hinaさんは、「やさし過ぎる・ゆずり過ぎる」ということはありませんか。
仏教でも慈悲である抜苦与楽(苦しみを取り除き、楽を与える行為)は肝要です。しかし、"過ぎる"は別ものであり、何事においても 過ぎる は、自己負担となります。
基本、仏教では中道という観念が僧侶には備わっています。端的に「かたよらない・こだわらない・とらわれない」という真ん中あたりの思慮です。
人間は「気配り・目配り・心配り」は良いことです。しかし"過ぎる"を付加すると、他人や相手からは「やり込めれる・利用できる・適当に扱えれる」と捉える人も少なくありません。
・働き過ぎる
・食べ過ぎる
・遊び過ぎる
・勉強し過ぎる
・寝過ぎる
・喋り過ぎる
などなど、まだまだキリがないほど有るものですが、"過ぎる"習慣から離脱していくことが今は大切なこととなります。
調子に乗ってくる人間は、馬鹿なのです。相手の思いやる行為を雑に扱うことは、人間としての経験不足(無知・愚者)であり、感謝をまだ知らない人たちでもあり、頭が花畑の人たちなのです。
だから、Hinaさんは優しさや思いやりの誠意をもって接しているだけなのに、相手側は純粋に受け取らず利用へと悪意が働き、自己中心的な人々へと成長させていることも一理あるのです。
自己修正は一気に直していくことはできませんが、徐々に、意識を少ししながら「過ぎていないか?」を思慮していくことで、見えなかった本来の自分自身の在り方を見出せていけます。
焦らず、ゆっくりと。
そして、Hinaさんの行為をわかってくれる人、見ていてくれている人も必ずいることも忘れないでください。
合掌
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
優し過ぎるかは分かりませんが、流し過ぎるところはあると思います。
衝突が嫌いですので、出来るだけ穏やかにいたいという気持ちが強いです。
ただその過ぎるが、相手のある部分を刺激したり、成長させているのでしたら、今後の仕事や友情関係に疲れが出てくるように思います。
今後は、自分の気持ちは少しだけでも伝えていけるよう努力していきたいと思います。
自分を大切にしてくれている人は存在しているので、
その人達に同じような行いをしないように気をつけたいです。
ありがとうございます。