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神に関する悩みで辛い。どうしたら?

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6年以上前にヒルティの幸福論という世界的名著の本を読んで感銘を受けました。只その中には、科学的でない事、非論理的な事も書いてありました。神を信ずる気持ちが高まった私はそれを信じてしまいました。書物や人との出会いは神の導き、といった様な事を。

当時出会って、神が遣わした結婚すべき人、と思った女性と結婚しましたが、私のタイプの方では無かったので、苦しくなり、1年で離婚。彼女が号泣するのを見て胸が張り裂けそうでした。私が自分の希望は無視して離婚を我慢していたら、彼女は悲しい思いをしなくて済んだかもしれない、苦しみに耐えきれず離婚した私は神に逆らったのかも知れない、と思うようになりました。神に逆らう様な離婚、という事をしたから、彼女は嘆き悲しんだし、自分も辛い思いをするのかと。

辛いので、神に祈ろうとするけど、祈れなくなりました。内心では、神よあんたのせいで、彼女を地獄に突き落として、私も苦しんでる、どうしてくれんの?と思っています。神を信じられなくなりました。教会も行くと辛いので全く行っていません。

でも神に救いを求めています、どうしたら良いのでしょうか?キリスト教の神父さんにも相談しましたが、解決出来ないので、質問しました。どうぞよろしくお願いします。

2022年12月29日 23:01

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

神を頼りながらも、自分の歩む道は、自分の責任で

神への救いで行動をしても、相手のことは見れていなかったのではないでしょうか。
結婚は、相手あってのことです。神のお導きでも、互いに相手を想いやれなかったら、関係は終わってしまいますよね。

あなたは、神のお導きであったにも関わらず、タイプではなかったと、相手を受け入れていけなかった。彼女が号泣するのを見て胸が張り裂けそうでしたとありますが、あなたの決断でそうさせてしまったのですし、あなたは 彼女と夫婦であることが苦しみに耐えきれないほどだったのでしょ。

本当に神のお導きだったのか。お導きにより得られた縁なのに、神にばかり頼り、夫婦関係を大切に育むという努力を怠った結果だったのではないでしょうか。

神父さんが、解決できないとおっしゃったのは、「神ではなく、あなたの問題」という意味だったのではないでしょうか。

あなたも、傷つかれたことと思いますが。神を頼りながらも、自分の歩む道は、自分の責任で、手にしていきましょう。その先に、幸せがあるのだと思いますよ。

2022年12月30日 20:15
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はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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神様を信じられたのはどうしてかというと

 こんばんは。もう同じことの繰り返しですみませんが、神様とヒルティとあなたの問題ですよね。「ヒルティが書いていたことは誤りだったが、それを鵜呑みにしたので彼女もわたしも辛い」という趣旨と受け取りました。
 あなたが「神様は〜である」という話を受け入れたのは、あなたに欠点や誤りや弱さや無知があるからですよね。そこを「信じる」という行為で補おうとした。
 その「自分の不十分さを自覚」した姿が、今のあなたからは感じられません。「俺は被害者だ=悪くない」って。
 だからわたしから見ると「自らの至らなさを棚上げするための神様」にしている。彼女と貴方が幸せになるかは、二人の努力次第、縁を紡いでいく結果であると受け入れられませんか?「神様が選んだ2人が結婚する」なんて、しばらく前に流行った何とか結婚式じゃありませんか。
 けど仏教的には…誰に勧められたとしても、誰に選ばれたとしても、結局幸せになれるか否かは本人次第。一緒になった時点では未定なのです。一年間一緒に過ごしたというのに、あなたが「そもそもタイプじゃなかった」「結婚したのは神様のせい」と言い続けたのでは、嫌になられても仕方なくないですか?「私が一年間してきたことは何の結果にも繋がらなかったの?」って。目の前の人でなく、一年前の自分に固執していたのが、いまの原因じゃないでしょうかね。

2022年12月30日 18:58
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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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質問者からのお礼

佐藤先生
ありがとうございました。

中田先生
回答ありがとうございます。はい、神にばかり頼るのでは無く、結婚前に、自分でも良く考えて見る事が大事だったと思います。結婚してからは、好きになろうと、神に祈ったり、フロムの愛の技術とかも読みましたが、自分の好みの問題なので、どうしても惚れる事は出来ず、、彼女が悲しむと分かっていたけど、別れを切り出しました。本当に辛い経験でした、彼女もそうだと思います。
神を本当に信じている時に、人との出会いは神の導き、とか書いてる本は罪深いと思います。私が良く判断出来て居なかったのは確かですが、ヒルティの幸福論とかも、良くないと思いました。神父さんはキリスト教側の人間なので、キリスト教を否定する様な事は言われませんが、私は誤ったキリスト教もあると思っています。

「宗教について」問答一覧

日本人に根付くステレオタイプの宗教倫理観

① 日本人に根付くステレオタイプの宗教倫理観といえば、やはり「現世で善いカルマを積んで死後にいいところへ行き、やがて解脱する」だと思います。これはバラモン教やヒンドゥー教のようにも思えますが、このスタンスを基礎としている宗派はどこでしょうか。とてもシンプルゆえに子供の道徳教育にも有効で、信心もしやすいと思います。「○宗」とかでなく「大乗仏教」という括りでみんな当て嵌まっていそうではありますが…。 ② 永遠の幸福はあるでしょうか? この質問を日蓮正宗のお坊さんへお話したら、「物事には必ずそれを妨げる逆風のような働きがあり、何をするにしても程度の差こそあれど必ず苦難は待ち受けているから、永遠の平安は無い。しかし、その「苦難に耐えてダメージを受けずに済む心」は手に入れることができる」というお話をしていただき、私はその心があれば永遠に幸福になるという夢を叶えられるのではないかと思いました。そのお坊さんが言うには、やはり日蓮正宗なので南無妙法蓮華経のお題目でその心を手に入れることができると仰っしゃられておりました。これについて皆様の意見や、ほかに苦難で傷つかない心を手に入れる方法を教えていただきたいです。 ③ 仏教には「運の良さ」はあるでしょうか? これは仏教を信仰してギャンブル運を上げるとかそういうのではなく、「運命を変える力」です。信仰しようがしまいが運の流れ=運命を変える力が無ければ、人類も動物も全ての生涯はみんな最初から「運命」というレールに敷かれた出来レースであり、人間の自由意志や選択や信仰に価値が無くなると私は思っているので、「運命を変える」「人生に転機をもたらす」などの意味で、運(人生の風向き)を変えてくれる力は仏教にはあるでしょうか。宗派なども教えていただきたいです。ちなみに、日蓮正宗のお坊さんはやはり「その方法はズバリ、うちに入信して南無妙法蓮華経を唱えること。阿弥陀如来を信仰してもあの方はあの世しか管轄していないから人生は変わらない、日蓮なら変わる」と熱弁されていましたが、これについてはあくまで例ということで否定や肯定などの意思はありません。 長くなり申し訳ありません。これを読んでくださった優しいあなたへ、ありがとうございました。私は永遠に善人でありたいです

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入信しなければならないですか?

ここ1.2年よく生きる意味を考えます。そこでネットで調べたら仏教での生きる意味や、それに連なる数々の話が出てきました。 それで形から入ってみようと、両手を合わせて生きる意味を考えようとしました。すると不思議と落ち着き、考えもまとまり辛さも軽減しました。 またすぐツイッターやYouTubeを見ようとするので、そのたびに煩悩、煩悩とつぶやくと意外と自分を制することができます。 すごいと思ったので、手を合わせる時に使おうと、ネットでちゃんとした数珠も買いました。 そこで、ふと思いました。自分は無宗教なのに手を合わせていいのか、数珠や数珠のブレスレットを身に着けていいのか、仏教の教えの美味しい所だけを掬っていいのか。自分に合う宗派も探して、自分と向き合う臨済宗が少し気になりました。 このような場合はどうすればよいのでしょうか、宗派に入らないといけないのでしょうか。また入信しなくても仏教徒を名乗ったり、数珠や、手を合わせるのはよいのでしょうか。 また少し浅はかだと思うのですが、臨済宗が少し気に入ってしまったので(響きがかっこよかったり、ぱっと見の教えが良かった)臨済宗用の数珠ブレスレットは身に着けてよいのでしょうか。これもちゃんと入信してからの方がよいのでしょうか。 多くてすみません、勝手に仏教徒を名乗る場合、自分は無宗教ではなくなり「自分は臨済宗だよ」となると思うのですが、それでゆくゆく臨済宗がしっくりこなくなり、他の宗、たとえば浄土真宗でしたら、急に「今は浄土真宗を信じてる」などと変えてよいのでしょうか。それとも一つ一つ手続きをしなければならないのですか? 宗教に触れてこなさすぎた為、どこまで許されるのか、こんな手軽に名乗れるわけがないと思ってしまいます。 長々と失礼しましたが、よろしくお願いいたします。

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宗派が違うとあの世でも別れ別れ?

仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で  かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?

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信者の質

 いつもお世話になっております。昨日、キリスト教の教えを騙る、 危険な宗教団体の構成員が近所をうろついて勧誘活動をしていた のを、追い払いました。近所には友人知人が住んでおり、友人に 関しては、最近になり、宗教に興味を持ち始めました。  私は、今回の安倍元首相射殺事件を受け、改めて、「宗教とは なんだろう」と思うようになり、また、昨日の一件(連中は 私の住んでいる地区を縄張りにして、昔から勧誘活動をやって いたので、今今始まったことではないのですが)を受け、恐ろしい まやかしを語って人々を貶める輩から、自分や身近な人を守り たい、そのためには、正しい教えを身に着ける必要があると 思い立ち、教会のお説教を聞きに行ってみました。  お忙しい中、お説教の後、牧師さんが時間を取ってくださり、 私の疑問に答えてくださいました。  そこで、キリスト教と、私の宗派、浄土宗の共通点を見つけ ました。  キリスト教では、 「私たちは、常に罪を作りながら生きている。本来なら処される べきは私たちなのだが、キリスト様が、私たちの罪を肩代わりして 磔になってくれ、神となって私たちを許し、救ってくれる。私たちは、 罪を重ねつつも、そのみ恵みに報い、許してくださるからこそ、 誠実に生きねばならない」  浄土宗でも、 「我々は、罪深き暗愚の凡夫である。戒律も守れない。しかし、 阿弥陀様が戒律や修行を代わりにこなしてくださっていて、 お念仏をすれば、許して救ってくれる。許してくれるからこそ、 誠実に生きねばならない」 と教わりました。  しかし、私は気になりました。 「似たようなありがたい教えを説いているのに、信者さんの 質が全然違う」  クリスチャンの皆様は、とても謙虚です。しかし、以前通って いた浄土宗の大寺の説教会に来ていた人たち(お坊さんまでも…) は、とても傲慢でした。 「念仏しない奴は、地獄に落ちる」 「念仏してても、他の仏や神を拝んだら、阿弥陀様に見放される」 と平然と抜かしました。  牧師さんや教会の皆様は、 「実は私は仏教徒なのですが…」 と言っても、嫌な顔をしませんでした。目指す所は違っても、 この世でするべき事は同じ、と言うと、喜んでくださいました。 「通じるところが、ありますものね」 と…  この差は、何だと思われますか?先生方のご高見、 拝聴したく存じます。

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宗教と危険物は似ている。宗教よ、どこへ?

 いつもお世話になっております。先日、こちらで、「お寺で、私に だけあれこれ言ってくる怖い奥様」のご相談をしました。それの続きの ようになるのですが、近頃、思った事があります。 「宗教と危険物は、似ている」  適切な管理と用法用量を守れば人の助けになるけれど、盲信… つまり、管理方法や使い方を間違えれば、プシュー、ドカン。  その奥様は、博識で、元から教えたがりの性格のようです。 他の事を話すときは和やかに見えるのですが、仏事の事になると豹変、 「私の知っている事が正しい。私の知っている事を聞け」 といった感じの態度や表情になります。後からお坊様に尋ねると、 「ああいった作法やしきたりは、定めていないよ。そこまで、 こだわらなくてもいい」 と笑っています。もしかしたら、カルトなのかもしれませんが… 家に誘われたこともあるので。  宗教映画を手掛けた、カルト問題にも詳しいある映画監督さんが、 「宗教は、必要ではあるが、危険を伴う」 とおっしゃっていました。なるほどと思いました。  「いい」「悪い」の二極で言うと、宗教は、「いい」事を説いて いるものでしょう。ですが、先述の奥様のように、「私たちが一番 正しい、一番いい」と盲信し、儀式行為等に執着する、つまり、 用法用量や管理方法を間違えると、宗教は、たちまち、「薬」から 「毒」…はたまた、「化学兵器」にもなりえると思います。  この奥様の延長線上が、新興宗教や、海外のテロ組織でしょう。  こちらの問答でも、しばしば、先生方が質問者様に、 「独学は危険なので、お寺のお坊さんに教わってください」 とご助言なさっているのをお見掛けします。  私は、独学の結果か、親鸞上人のお歌にあるような、誤った認識を 持っているご信徒様が多いように感じており、憂慮しております。 「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめ つつ 卜占祭祀つとめとす」 拝む事だけ熱心で、何かが起きれば、全部「霊」や「神様、仏様」 のせい。祈りというより、たたり信仰。拝んでさえすればいい…  「薬」だったはずの宗教が、「毒」や「化学兵器」になりかけて しまっている印象です。  半分、私の愚痴でした。どうにかしたい、でも、できない。 先生方のご高見、賜りたく存じます。

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なぜこの世は無ではなく有なのか

何故この世界は「無」ではなく常に「有」である必要があったのか? この世に起こり得る全ての結果には原因である何かが存在しています。その何かが存在している理由として宇宙ビッグバン誕生説が最も指示されています。その原因は「真空中の揺らぎ」だとされています。しかしそれは「有」が生まれた理由にはなりません。完全なる「無」からは何も生まれないからです。揺らぎの原因であるaが存在し、その原因であるbその原因である原因c、その原因であるd…以下略 と常に原因である「何か」が存在し続け、無限退行し続けます。そのため宗教ではよくそれを裏付ける根拠として「神」の存在が信仰されますがそれも同様で無限退行に陥ってしまいます。仮にそれを時間や空間を超越した神のような人知の及ばない存在し、この世を想像したとしても「神」そのものが「有」であるためその原因が必要になるはずです。神の原因であるa、aの原因であるb、c...etcとキリがないです。 この世の全ての問いは「どのようにして世界が作られたのか?」ではなく、「何故無ではなく有であったのか?」という問いに帰着するのではないかと思いますし、個人的には哲学においても最も答えを導き出すのが困難な問いだと思います。無から何も生まれない良いように、どれだけ有を追いやったとしても完全に消滅はしません。全ての現象を因果関係で考える人間特有の物差しが通用しないのでしょうか?最近不登校鬱気味なのでこんな事を一日中考えてしまいます...この極めて解答困難な問いについてどう思われますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ