成長し苦しみを滅することができるのか
仏教の本を読んでいたら次のような一節がありました。
若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉だったと思います。
“二十歳に満たないものは、暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉に耐えられない。彼は、死に至るまでのあらゆる身体的不快や苦痛を、我慢できない。だが、二十歳になればそれができる。このことは、いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない”
最後の一文はどういう意味でしょうか?本筋と異なりますが、もしよろしければ、あわせてご教示いただければ幸いです。
私は二十歳を超えていますが、これらのことに耐えることができません。本当に毎日つらくてたまらなく感じます。さらに年をとるとますますつらくなるのかと思うと、怖いです。
"二十歳になればそれができる"、とありますが、大抵の人は耐えられるのでしょうか。私は人生で、努力をしてこなかったから、苦しいのでしょうか?成長し損ねたのでしょうか?40になって今からどうしていけばいいのかと思います。
苦しい状態がずっと続いています。
お言葉をいただければ、幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
昔と現代では人間の質が違う
現代日本を生きる大人が“20歳”と聞くと、成人式の様子が浮かぶと思います。(今は18歳ですが)
その浮かんだ映像に見えるのは、“初々しい”スーツ姿であり、“未熟な”若者たちではないでしょうか?
昔は違います。
公教育などありません。
しかし、公教育がない分、家の仕事を手伝います。
少し経験を積めば、自分で生産し、生活をします。
20歳の時点ですでに“社会人”10年目ということもざらにあるわけです。
現代の平均値よりずいぶんと“大人”であると考えてよいわけですね。
この様に、人間の成熟度はその時代・地域の文化によって大きく差が出るのでインド、少なくとも中国で書かれた経典を“数字”で捉えるべきではないでしょう。
“精神的成熟”
もっと意訳的に言えば“大人”と読み替えればいいのではないでしょうか。
“大人”とは、自分の人生に責任を取れる人のことを言います。
何歳になろうが、それが出来なければ大人とは呼べません。
『若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉』
“戒”とは自らを制し、生き方を決めることです。
それを、自分の人生に責任を持てない“子供”に教えることは非常に危険です。
自分を制御できない人間に、より高度な精神の鍛練を教えることは身の破滅につながるからです。
『暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉』
これらは生物として“自然に回避”するものです。
嫌うのが当たり前、耐えられないのが自然なのです。
“大人”であり、“責任”という精神でしか、人間にはそれを受け入れる理由がありません。
“戒”とは決して、「人に言われたから」と手を出していいことではないのです。
最後に
『いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない』
この言葉の“我々”とは、仏教を信仰し、戒を授ける側の人々です。
自分で責任がとれない受戒者を増やすことは、仏教教団の品位と質を下げる、という話です。
それは、判断能力のない子供に営業をかける会社と同じだからです。
質問者からのお礼
けいじょう様
ご回答誠にありがとうございます。
歴史的背景をふまえて、読む必要があるということですね。それは、まさに、引用文が書かれていた本で主張されていたことなので、私は読んだことが身についていないなと、反省しております。
戒についても、見解を改めることができました。自ら戒を理解した上で守れる人、大人こそが戒を受けるのですね。
私は自分の未熟さにひどく苦しめられており、どうしたら大人になれるだろうか、苦しみから解放されるだろうかと考えています。
またご質問させていただくと思います。
ご回答誠にありがとうございました。