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成長し苦しみを滅することができるのか

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有り難し有り難し 10

仏教の本を読んでいたら次のような一節がありました。

若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉だったと思います。

“二十歳に満たないものは、暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉に耐えられない。彼は、死に至るまでのあらゆる身体的不快や苦痛を、我慢できない。だが、二十歳になればそれができる。このことは、いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない”

最後の一文はどういう意味でしょうか?本筋と異なりますが、もしよろしければ、あわせてご教示いただければ幸いです。

私は二十歳を超えていますが、これらのことに耐えることができません。本当に毎日つらくてたまらなく感じます。さらに年をとるとますますつらくなるのかと思うと、怖いです。

"二十歳になればそれができる"、とありますが、大抵の人は耐えられるのでしょうか。私は人生で、努力をしてこなかったから、苦しいのでしょうか?成長し損ねたのでしょうか?40になって今からどうしていけばいいのかと思います。

苦しい状態がずっと続いています。

お言葉をいただければ、幸いです。

2023年1月24日 11:01

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

昔と現代では人間の質が違う

現代日本を生きる大人が“20歳”と聞くと、成人式の様子が浮かぶと思います。(今は18歳ですが)
その浮かんだ映像に見えるのは、“初々しい”スーツ姿であり、“未熟な”若者たちではないでしょうか?

昔は違います。
公教育などありません。
しかし、公教育がない分、家の仕事を手伝います。
少し経験を積めば、自分で生産し、生活をします。
20歳の時点ですでに“社会人”10年目ということもざらにあるわけです。
現代の平均値よりずいぶんと“大人”であると考えてよいわけですね。

この様に、人間の成熟度はその時代・地域の文化によって大きく差が出るのでインド、少なくとも中国で書かれた経典を“数字”で捉えるべきではないでしょう。
“精神的成熟”
もっと意訳的に言えば“大人”と読み替えればいいのではないでしょうか。
“大人”とは、自分の人生に責任を取れる人のことを言います。
何歳になろうが、それが出来なければ大人とは呼べません。

『若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉』

“戒”とは自らを制し、生き方を決めることです。
それを、自分の人生に責任を持てない“子供”に教えることは非常に危険です。
自分を制御できない人間に、より高度な精神の鍛練を教えることは身の破滅につながるからです。

『暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉』
これらは生物として“自然に回避”するものです。
嫌うのが当たり前、耐えられないのが自然なのです。
“大人”であり、“責任”という精神でしか、人間にはそれを受け入れる理由がありません。

“戒”とは決して、「人に言われたから」と手を出していいことではないのです。

最後に
『いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない』

この言葉の“我々”とは、仏教を信仰し、戒を授ける側の人々です。
自分で責任がとれない受戒者を増やすことは、仏教教団の品位と質を下げる、という話です。
それは、判断能力のない子供に営業をかける会社と同じだからです。

2023年1月25日 12:06
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有り難し
おきもち


けいじょう
日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐...
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質問者からのお礼

けいじょう様

ご回答誠にありがとうございます。

歴史的背景をふまえて、読む必要があるということですね。それは、まさに、引用文が書かれていた本で主張されていたことなので、私は読んだことが身についていないなと、反省しております。

戒についても、見解を改めることができました。自ら戒を理解した上で守れる人、大人こそが戒を受けるのですね。

私は自分の未熟さにひどく苦しめられており、どうしたら大人になれるだろうか、苦しみから解放されるだろうかと考えています。

またご質問させていただくと思います。

ご回答誠にありがとうございました。

「仏教全般」問答一覧

仏教はその目的の実践以外何もない(3)

 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)  前略  その時、世尊はかように仰せられた。  比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。  まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。  後略  (私見)  釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。  輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。  生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。  死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。  再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。  仏教はその目的以外何もないのです。  「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。  渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。  また「子は授かりもの」とも言います。  またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。  このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。  親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。   因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね?  その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。  「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。

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仏教はその目的の実践以外何もない(2)

 阿含経典 縁起 (南伝 相応部経典 12.3. 道跡) 前略  「比丘たちよ、正しからぬ道とは何であろうか。  比丘たちよ、無明によって行がある。(以下十二支縁縁起)受→愛。愛→取。取→有。有→生。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積のよって起こるところである。  比丘たちよ、これを正しからぬ道というのである。  比丘たちよ、では正しい道とはなんであろうか。  無明を余すところなく滅することによって行は滅する。(以下十二支縁起)愛→取。取→有。有→生。生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このすべての苦の集積のよって滅するところである。  比丘たちよ、これを正しい道というのである。」  (私見)  仏教を知らない人は、皆「無明」なのでしょう。だから縁起に従って生まれてきます。  それは正しい道ではないと警告しています。  生まれてきた人間にお前は正しくないと言われては、何とも救いがなく宗教にはなりません。  従って仏教は「真実の教え」であって生きている人間には救いもなく大変冷たいのです。  救いは次の「正しい道」だと教えています。  しかし無明を「有明」にするのであれば比較的易しいですが、無明を「滅する」となっていますので、とんでもない話です。比丘には「涅槃」を勧めています。いわゆる「心の死(エネルギー化)」ですね。   唯「目的」は「解脱」となっていますので、衆生には、浄土(天界?)へ行く「生まれ変わらない」道をを含んでいるようですので少しは安心です。

有り難し有り難し 4
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仏教≒物理学と言われたけれど?

 いつもお世話になっております。常々こちらで申し上げております 通り、私は、昨今の仏教情勢に強い危機感を感じています。この道に 関心や知識のない方からは、 「仏教は、非現実的で、拝めばどうにでもなると思っている偶像 主義・神秘主義で、拝んでいない奴は救われない、拝んでいる自分 たちは特別な存在だと思い込んでいて、現実的な考え方ができない 人たち」 という印象を持たれ、信者側には、 「拝んでいない連中は、貧乏暇なし。私たちは、拝んでいるから 努力しなくてもいい。神仏が何とかしてくれるから。全ては、 神仏の働きによって成り立っている。拝めばなんとかなる。 ○○寺は強い、××寺は弱い。だから○○寺のお守りを持って いれば、力を得られる」 などという、宗教ではなくオカルト的な認識が蔓延しています。 信者だけでなく、本山や有名寺院まで、オカルトビジネスで 儲けています。  私もそんな愚かな妄信者でしたが、こちらのお坊様のお話を 勉強させていただくうち、 「世の中でまことしやかにささやかれているオカルト的な考え方は、 本当の仏教じゃない。仏教は、とことん現実を見て、現実に存在 する事物を駆使して苦しみを除き、間違った論説に惑わされず、 冷静に生きていく教えなんだ」 と感得しました。  そこで私は、学生時代に大嫌いだった理科を学ぶことにいたしました。 基礎、有機、生化学の教科書が家にあります。白衣も、簡単な実験器具 もあります。  近所のお寺の住職様にこの考えを伝えたところ、 「化学もいいけど、物理が大事な気がするなあ」 と言われました。  しかし、物理は戸口が大変広い学問です。力学、電磁気学、量子論、 相対性理論、光学…身近な例だと、心霊写真は光学でしょう。霊感は、 精神疾患や劣悪な環境(カビ毒など)、低周波音が原因といわれる ので、化学なら生化学、物理なら音波…  色々調べているのですが、わかりません。大学に行けば、と言われ そうですが、私は持病があり、大学受験に割くことのできるエネルギー がありません。市民講座や、好きな科学者さんの実験ショーにはお邪魔 しようと考えていますが…  物理学の中では、何が一番仏教に通じていますでしょうか? ご高見を賜りたく存じます。よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 7
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仏教はその目的の実践以外何もない(1)

 「仏教の目的」とは「輪廻転生からの解脱」ですが、阿含経によれば、それだけと言う大変厳しい教えです。  従って、この説教は釈尊の予言通り、没後500年で滅亡したようです。  自己否定の説教では誰も就いていけなかったのでしょう。  現代の仏教は四苦ではなく多くは「老病死」の三苦となっていますが、滅亡した仏教では「生」が最大の問題です。  以下順を追って経典を眺めて見ます。 阿含経典 縁  (南伝 相応部経典 12.20. 縁 )  前略  「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。生によって老死がある、という。このことは如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているものである。」(以下略)  (私見) ここで「縁起」とは「生老病死」の四苦を言い、しかもそれは仏教とは関係のない、自然の摂理であると断定しています。  自然の摂理ですから、仏教はそれを救うことは出来ないと言う意味に取れます。 生まれたら苦しみを逃れるにはひたすら死を待つだけです。死ねば四苦から解放されます。  死後が無ければ、それですべて解決しますが、身体(色)は死んでも心(受想行識)は同時には死なないようです。身体は構造が複雑ですから故障しがちですが、心はその構造もわからず、臨死体験から想像すると多分空気のように軽いでしょうから、死ぬ要素が無いのでしょう。だから仏教では「死」を死と言わず「往生」と言っています。  従って仏教の救いは死後にあると言いうことになりますが、四苦が無いですから、仏教の出番は無い筈です。  多分前世に残った欲の記憶が、再び生へのあこがれになるのでないかと思います。  これは人間に限らずすべての動物に共通の営みでしょう。  これ等を生前に理解して実践し、再び出生しないよう救うのが滅亡した仏教です。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ