生きる糧と信じている宗教や教えを回答受付中
宗教の創始者もしくは教えに否定されたらこれから生きていくには皆様ならどうすると思いますか?神様は霊なんでしょうか?分かりにくくてごめんなさい。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ご質問ありがとうございます。
例えばこの世から仏さまや仏教がなくなったら、お布施をもらえなくなりお坊さんとしては生活できなくなるので、食べる為にも何か仕事を探さないといけなくなりますね。電気主任技術者やフォークリフトや危険物乙四などの資格が役に立てばいいのですが。
思想については仏教が無くなっても仏教の教えが私の中から消えることは無いと思いますよ。
神様は霊なのかどうかは人によって見え方が違いますので人に聞いても意味はありませんよ。あなたがどう思うか、それだけでいいのです。
宗教は縛られるものではありません
世界中のあらゆる宗教は、その土地や文化の人々を幸せに導くものです。
だからこそ、地域や文化によって表現が違うし、比較しょうの無いものであろうかと私は思っております。
例えば、世界中で虹の色は何色であるかの認識も地域や国によって違うのと同じかもしれませんね。
ですので、お釈迦さまも人生の苦悩を、流れの急な広い川に例えて、ご自分の教えを川をわたり向こう岸にある安心と幸せをつかむ手段として、川を渡るイカダに例えました。
さらに、川を渡ってしまった後は、そのイカダをいつまでも持って歩く必要は無いとおっしゃっておられます。
ですので、命がけでイカダを使い川を渡ったら、イカダは手放しても良いものなのです。
イカダではなく、ボートがいい!とか、1人乗りのカヌーじゃなきゃ!とかイカダは木材でなきゃ!とか、いや、素材はファイバーがいい!とか、イカダを何で漕がなきゃならないとか、漕ぎ方は?とか、そう言った決まりなどは、先人から受け継がれた経験とこだわりです。大きなアドバイスとも取れると思いますが、従わないと破滅するようなものでも無いはずです。
今の貴女にとって大事なことは、川を渡るのは自分であるということです。
どのように何を手段として川を渡るのか、ご自分のご縁をしっかりとご自分の心の中を見つめて感じ取れるように、日々心を見つめる静かな時間を取ってみてはいかがでしょうか?
日本の神さま方々も川を渡るのにご助力くださる方々です。
しっかりと礼儀を尽くして、目先の利益だけを求めずに、お参りされていたら大丈夫です。
じゃ、別のところ。
こんにちは。ご無沙汰しています。
「人格の向上」を謳うところは特に、「一時否定・一部否定」をすることはあるでしょうね。「お布施が足りない」「信心が足りない」「忠誠心が足りない」とかね。
なので、ありそうな話としては、「もっと〜すれば救われるぞよ」みたいなのとセットになるはず。後半部分なしならば、「イヤー!何でもするから助けて下さい」待ちかも。
ただ、例えば我々は全員キリスト教から見れば異端者ですから、そこから見れば地獄落ちです。つまり「どこに属しているの?」は非常に大きな問題。我々だって、「仏の体に傷をつけ出血させてはならない」とか決まりがあるんですよ。
なので選択肢は2つ。「許して下さい」か「サイナラ」です。どちらを選ぶべきかは、「何をして否定されたか」によるでしょうよ。つまり自身の納得感です。「私のアレを否定される所以は無い」と思うなら、サヨウナラも選択肢のうちかと思います。
質問者からのお礼
やっぱりすごいなぁお坊様って、神はかは自分判断かぁ。仏様に血を流させてはいけない?そんなきまりがあるのですね。赦しかさよらなら、かぁ。よく分かります。しっくりきます。まいにち仏様と向き合ってる方はまいにち思うことがあるみたいで具体的でよくわかりました!