四念住
最近、仏教を勉強しているのですが、四念住における身念住がよく分かりません。
「体が不浄である事を観察する」という解説をよく見るのですが、そのままの意味で「体が汚い」と理解すればよろしいのでしょうか?もし、そうであるならば、何故その様に観察しなければならないのでしょうか?
ご教授いただければ幸いです。
お坊さんからの回答 2件
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執着に値しないものだと悟るため
自分や他人の身体への執着、美貌や性欲、死にたくない等の執着は、悩み苦しみの原因になりますし、悟り(成仏)の妨げにもなります。
なので、身体や物質は私達が概念・観念で思っているほど素晴らしいものではないと気付かせて執着に値しないものだと悟らせるために、不浄を観察するのだと思います。
苦・無常・無我も結局は、「執着に値しない」と悟らせ、悩み苦しみから卒業させるための教えなのだと思います。
日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の著書か何かで、このような内容があったのを思い出しました。
お皿の上の美味しい食べ物を自分の口に入れて、何回か噛んでから再びお皿の上に戻したら、それを食べたいとは思わない。
自分で噛んだものだけど気持ち悪い(不浄)。
というような内容でした。
また、お釈迦様は、性欲に悩んでいる人に対して、どんな美男美女でもひと皮むけば糞尿入りの袋に過ぎないと説かれました。
煩悩を滅し輪廻転生の繰り返しから解脱(卒業)するため(いつ死んでも構わないと達観するため)には、肉体への執着から離れる必要があるのでしょうね。
身受心法の四念処の意味ならば
釈尊が観察瞑想(ヴィパッサナー)の対象として四つを挙げて説法していて、それが大念処経とか念処経という名前でパーリ語の経典に保存されています。それぞれ、大蔵出版の長部経典の訳と中部経典の訳に、駒澤大学名誉教授の片山一良先生の訳が出ています。たぶん、長部の大念処経のスマナサーラ長老による訳と解説が、サンガという出版社から出ています。こちらは解説付きなので分かりやすいです。
身受心法の二番目の受は、感受した感覚を捉えて観察することなので分かりやすいです。座禅していても、目は閉じていますが、外部からの音や匂い、たとえばカラスが鳴いた音が聞こえたら、ただ、音、音、音、と観察し続け、おわったら、また体の内側の感覚に戻る。主なものは呼吸に伴うお腹の膨らみ縮みを、ただ、膨らみ、膨らみ、縮み、縮み、と観察し続ける。これが一番わかりやすい感覚≒変化の観察です。
三番目の心は、変化が速すぎて観察するのが大変です。しかも直前の自分の心を今の自分=心が観察するので……
四番目の法は、最後の仕上げで、自分だけでなく他の生命も物質世界も同じように無常、苦、無我だと観察することなので、これは最後ですね。
最初の身の観察は、スマナサーラ長老の解説には出ていたと思いますが、まず自分の体というものを皮膚の内側のものたち、そして皮膚を越えた外側からも、などと観察することだったと思いますが、二番目の感覚・受の観察よりも実体的・静的になりやすく、かえって無常・苦・無我に気づきにくい場合もあるので、スマナサーラ長老は、二番目の感覚の観察を勧めているようです。
質問者からのお礼
なるほど、ありがとうございます!
スマナサーラ長老の例えもしっくりきました!
長老の本も読んでみようかと思います!