不安症、鬱気味かもしれません
犯罪行為ではないのですが道徳的、人道的に許されないことだと自覚しています。
もう10年以上前の話ですが、
職場の既婚上司との不貞行為です。
(当時私は独身、相手は子どもはいません。)
愛人になるとゆう提案は拒否し、
私には恋愛感情は全く無く、
自分から誘ったことは一度もありません。
本当にただの性欲処理の様な関係です。
当時から罪悪感嫌悪感を感じ、家に帰るとなんでこんな事を…と、仏間で懺悔したこともありました。
早く新しい恋を見つけて断ち切りたいと思いながらも過酷な仕事に追われ、
私も相手もストレス発散にしていたのかもしれません。
途切れ途切れ2年程の関係だったと思います。
途切れたのちまた手を出されたときには本当にもう無理だと拒絶し、その場は謝罪を受けそれからは全く何もありません。
相手の奥様とも知り合いですが、
このことは誰にも知られていません。
誰も傷つけてはいないし、
行為の為にお金なども発生していません。
忘れたくても忘れることができず、
思い返しては断ることはできたはずだと後悔の念に駆られ、
なんで自分はそうできなかったのかと
自分を責め続けてしまいます。
数年前私には勿体無いくらい素敵な人との出会いがあり、現在その方と結婚して幸せに暮らしております。
両家族とも良好な関係です。
が、その旦那さんと付き合ってる当時から楽しく過ごしているときもその事をふと思い出して罪悪感に苛まれたり、
この先何か最悪なことが待っているんじゃないか、
バチが当たるんじゃないか、
関係ないとは思いながらも現在妊娠中の子に何か不幸が降りかからないか等…
ネガティブ思考に陥ってしまっています。
考えても過去の過ちが消えることはない、
自分も辛い思いをした…とか
(前回の妊娠時も同じ様な思考に陥り、
そのせいではないですが流産を経験しております。)
責任転嫁したり、
プラスに言い聞かせる様に頑張ったり、
救いを求めてネット検索してみたりの日々が続き…
そしてこちらに出会いました。
他の投稿者へのお坊さんの言葉を自分に言い聞かせて心を落ち着かせたり
念仏を実践したりして日々心と向き合い懺悔しています。
宜しければこんなわたしにも何か救いの言葉をいただきたく、
長々と自分の気持ちをほとんど書かせていただきました。
よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
これから
ご相談拝読しました。
10年以上、ずっと苦しい思いを抱えてきましたね。どうかいたずらに自分を責めるのでなく、そして開き直ってなかったことにするのでもなく、あなたがあなたを受け止められますように。
私たち人間というのはどうにもならないものを抱えています。自分で自分のおさえがきかない。
誰も犯罪者になろうと思って生まれてくる子はいないでしょう。でも、生まれた環境や出会う出来事の中でそういうことになってしまう人もいます。それは自分の思いを超えています。
今日のお昼は何を食べよう・・・ラーメンがいいかなと思ったとして。そのラーメンがいいという思いも自分だけで決めたわけではありません。その日聞いた会話や見た情報、嗅いだ匂いや、近くにあるものなど数え切れない諸条件がととのってたまたまあなたの中に「ラーメンが食べたい」という思いを起させます。
同じように、あなたがしてしまったことも、あなたや相手が生まれてから、いや、生まれる前からの数え切れない諸条件が二人をしてそのような行為に至らせたのでしょう。性欲、ストレス、不安、損得・・・自分の思いを超えてわき上がってくるものが二人を突き動かしたのです。
しかし、これは運命論ではありません。運命論はこの先も全て決まってしまっているということです。仏教ではそのようには考えません。今自分が何を為すかという選択が未来を変えていけるという教えです。
あなたはどうにもならないものを抱えている自分に気づきました。それは苦しいことですが、人間の事実でもあります。
皆、認知症になることを恐れますが、それは認知症になっておかしくなってしまうからではなく、いつも抱えているどうにもならないものが理性で抑えられないようになることをわかっているからです。薄々は人間の事実に気づいている。
その事実をあなたは受け止めましょう。そこから見えてくるものがある。あなたの愛する家族や関係する人たちもいつかそうした状況になるかもしれない。
その時、あなたはきっと力になれる。具体的なことを語る必要はないでしょう。ただ、あなたが受け止めた人間の事実が他者への目も開いていくのです。
あなたのこれからの歩みが、過去の意味を変えていくのです。
質問者からのお礼
回答ありがとうございました。
自然と涙が出て出てきました。
なかったことにできないのは理解しつつ、現実逃避したかったのかもしれません。
"事実を受け入れる"
これからもこのもやもやから解放されることはないのかもしれませんが、
それが自分への戒めだと思い受け止めていきたいと思います。