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肩の力を抜くには…

回答数回答 2
有り難し有り難し 18

完璧主義、責任感が強い、気負いがち、負けず嫌いetc.が私の性格の特徴です。

仕事や課題に取り組むにおいて、どうすれば肩の力を抜けるのでしょうか?

よく、何事も5.6割でOKと言いますが、私はそれだととても不安です。
失敗が怖いです。

ついついいつも頑張りすぎてしまい身が持たなくなるので、改善をしたいと考えています。

上手く人生と付き合う方法を教えていただきたいです。
よろしくお願いします。

2023年4月11日 1:34

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の添加物・つけたしを実際の仕事にもちこまない。

・最悪の事態を想定しない(-_-メ)
・誰も完ぺきにできるわけではない( ˘ω˘ )
・仕事といってもやることをやればいいだけ(*^-^*)
・仕事といってもやることは手足アタマ口を動かすだけ('◇')ゞ
・誰も聖人君子ではない(´ー`)
・自意識過剰をやめる(;´Д`)
・他人の目や評価よりも自分のスキルクオリティを意識する(゚Д゚)
・失敗や失いを恐れているということを「やっている」と知る(´;ω;`)
・経験を積んで「ああ、こういうことをやればいいのかぁ。」と学ぶ。(._.)
・他の企業、他の人、別のケースからも学ぶ。( ..)φ
・何かを気にする自分の心の方を問題にして動じない心を築き上げる(゜_゜)

あれもこれも、あの人がこの人が、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようとさわぐはただわが心ひとつなり。
おさめるべきところはただひとつ。

肩の力を抜くには自分の心が揺れているときは揺れていることにあらがわないことです。まだ経験が少ないうちは「なにを」「どう」すれば「適切」なのかがわからない。だから心が騒ぐのです。
仕事仕事といっても、やるべきこと、やるべき形があるもんでしょう。
要らぬ蛇足事を捨てて、余分な心の添加物・オプションをもちこまないことです。
しんぷるに。
たんじゅんに。
そんなに人はあなたに高い理想を求めていません。
あなたはあなたで理想がものすごく高いのでしょう。
仕事をするのではなく、学びをさせていただくという姿勢を持つことです。
人生は一生まなびですから。
この度の責務を通してこういうことを学ばせていただくという視点をベースに、自分でできる限りのことをすればいいのです。
今までやってきた仕事や友達との会話、職場の人とのやり取りといっても、終わってみればやることとしては大したことでもなかったはずでしょう。
「ああ、こういうことをやるのが仕事というものなのかぁ。」という理解。
自分が全体の流れの中で、どこにあって、何をどうすることでこの企業の利益を生み出しているのか、全体の中での役割を知っておくことも学びになるでしょう。

2023年4月11日 6:28
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

最低限をまずクリア

日本の企業は真面目すぎて、海外のビジネスマンから見たら生産性が低いようですね。
時間とコストをかければ完璧な仕事はできます。
しかし、そこまでの完璧さを誰も求めていないかもしれない。
一方で、仕事には、絶対にやらなければならない最低限のこともありますよね。
私はお坊さんと他の仕事を兼業しており、完璧にやる時間が無い場合が多いです。
そんなとき、ついつい焦ったりしてしまいがちですが、「まずは最低限やらなければならないことをクリアしよう」と意識するようにしています。
ひとまず最低限の作業をクリアすると、心が落ち着きます。
あとは、余った時間があればその時間の中でできる範囲のプラスアルファを加えるもよし、休憩するもよし。
仕事についても、お坊さんは急に葬儀が入って会社を休む必要があるかもしれない。
だから、「最悪突然休むことになってもなんとかなるように」と意識し、それが裏を返せば「最低限をクリアしているから何かあればまだ手抜きする余地がある」という余裕につながります。
あとは、余った時間があれば、もっと完璧を追求したならやれば良い。
「絶対にやらなくちゃ」から「やりたいからもう少しやる」に変わると、肩の荷が下りて楽しくなります。

2023年4月11日 7:03
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

丹下 覚元さん
(こちらの回答の方が私には合ったので)

回答ありがとうございました。
その後お電話でも話を聞いていただきました。
スーッと心に話が染み込んで、ユーモアもたっぷりで、本当にお話ができてよかったです!
ありがとうございました!

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