死とか無とか
幼稚園の頃でしょうか、祖父の死に接して、死ぬってどういうことなの?
と眠られぬ夜を過ごしたと親から聞かされたことがあります。
中学高校の頃になると死ぬこと、無ということが恐ろしいと埒のあかない煩悶に苦しみ、そのうち、そもそも目の前に見える、知覚する世界の存在だって何の保証もない気がしてきて、そもそも懐疑論者というよりは病的に存在とか認識の作用自体確信がもてない、と不安にさいなまれていただけなので建設的でも哲学的でもなかったです。
「虚無」というのも言語や人間の思考の生み出した幻でしかないのでしょうか。
分析哲学みたいに考えればそもそもそんな思考のおよび得ないことは哲学の扱う領分ではないし、人が考える意味もないことなのかもしれないと最近は思って気もしました。
それに存在に懐疑するなら虚無だって懐疑すべきで…。
こんがらかってしまいます(笑)。
そもそもそういうことを考えてみたとて幸せに結びつくのかとも思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死を考えるのは真理への道の第一歩
死を思うのは良いことです。無駄どころか、逆に真理への第一歩と、仏教では見ています。が、それにここ100年程度の最近気づいた西洋哲学に答えを探しても、まだ死についての答えは出ていません。
釈尊は、死を観察することは解脱にさえ至る高度な観察だと讃えます。もちろん死ぬのは嫌だなどと怖がることではなくて、しかもまだ自分は死んでいないので、誰か、何かが死んだとき、死にそうなときなどに、しっかりと冷静に観察します。死とはどういうことかと。
これは誰にでも起こることだ、自分も必ず死ぬのだ、死ぬまでに何をなすべきか、などと観察すると、心がしっかりしてきます。
しっかりした心で、死について、生まれについて、生死を離れる道があるのかどうかなど、もっと知りたくなったら、仏教にはそれらにも全部、答えがあります。学んでみてください。
大乗の各宗派に分かれる前の、釈尊の教えそのままだという上座部(テーラワーダ)の教えがストレートです。(宗)日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老がちょうど昨秋に死についての冊子を発行しています。同協会のホームページから見ることができると思います。
質問者からのお礼
スマラサーナ師の冊子を読了しました。
死についても、ありのままに避けられ得ないもの、そういうものなのだと受け取るしかないのでしょうね。それこそ今生きていることに何にも疑問も反発もないくらいに。
慈照様の他の方への問答も拝読いたしました。
無常ということを頭ではそうかな、と思うけれどヴィパッサナー瞑想を実践してみたいと思います。
スマラサーナ師の動画を少し見たことはあったのですが真面目に取り組めなかったのですが、出来ないなりに続けてみたいと思います。
10年ほども前に歳の近い従兄弟が病死しました。
これからいくらも近しい人、そうでない人の死を見聞する中で当たり前の真実、滅びなものはないということを観察していきたいと思います。
もしかしたら私のような凡夫でも恐れを消せるか軽減できるか、向き合って参りたいと思います。
ありがとうございます。