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不倫10年 相談することすら迷います

回答数回答 3
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私は独身です。相手が3人のお子様がいて、会社でも重要な位置にいます。始まりはごく普通でした。10年も今続いてしまっています。

何十回自分から別れを告げ、寂しいけど頑張ろうと思ってひとりになり、少ししたら連絡があります。彼の弱った時に。それを無視しなきゃいけないのはけど、助けることを名目に私が結局好きで連絡を受けてしまう。その繰り返しです。

彼は奥様のことや家庭のことは話しません。
この10年、始めの5年は一緒になりたい、結婚しよう、奥様とも離婚話はされたみたいです。
でもここ5年はそのようなことはないです。
先の話をすると先のことはわからない。
連絡してごめん、です。

家庭があって仕事でも重要な位置があって、そのストレスの癒しを私に求めてるだけで、不倫の典型的なところだとわかっています。

子供2回おろしました。彼は産んでいいと言ったけど、産んで万が一表沙汰になったら彼の立場が。。
そして彼の3番目の子供さんは昨年生まれたばかり。奥様とそういうことがあることに、わかってたはずなのにショックでその時も離れました。

都合のいい女なのも、連絡無視すればいいのもわかってて。。いやわかってるつもりなだけですよね?自分を大切にできていないんですよね。
身体だけが、目当てやろとも思ってますが、
それを伝えてもそう思われても仕方ないけど愛をこうしてしか伝えられないと。
本当に彼の家族も子供も傷つけて自分も傷ついて
彼のことも本当の愛があるなら彼のことを思って離れることも、結局自分が可愛くてできない弱さと。
10年。愛しているのは確かです
そしてもう35さい。自分の人生の不安もあります。
彼の子供だけ欲しいと思うこともあります。
最低ですね。
彼の家族のことも申し訳ないとは心から思いますが、本当の意味で思えてないから続けてるんですよね、私。
自業自得で最低なわたしで、悲劇のヒロインになってるだけかもしれない私ですが、
自分の人生の責任は自分でとらなきゃいけないので、言葉にするのは難しいのですが、
どのような心持ちでいてどのように整理すればいいのかアドバイスいただけますと幸いです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういうのを愛だと思うのを愚かという

さっさと別れましょ。
以上。
―――――――――
追伸 おまけッス。
可哀想な自分に酔ってたって、何の報われもない。
死んだ子供たちの怨念が聞こえませんか。それでもまだ続ける。可哀想に。
死んだ子供たちが可哀想だと思えない、思わないあなたはどうかしている。
目を背けているだけ。そいつもアナタも快楽が好きなだけ。愛とか言うのは、愛に失礼でしょう。
そんな、あなたも可哀想。
影で浮気されてる奥さんも子供もかわいそう。
その家族親族たちもかわいそう。
そういう悪党を「好き」「愛している」と錯覚しているあなたは、悪いですがチョー愚かだと思います。
そういう悪事を「愛」の名で上塗りしているあなたはこざかしいと思います。
恋する自分に酔って女性としての人生も未来の命も殺している。
このくらい言わないと、ズルズルで相手の都合のいい女になるだけ。
今月でその関係、やめましょう。
縁を切るイイ方法がありまっせ。
「(´◉◞౪◟◉)奧さんに会ったわ。ずっと後を付けたの。あなたとの関係も親友たちにみんな話したわ。日記をコピーして渡したから、私の身に万が一のことがあれば、私の日記が世間に公表されて、あなたは逮捕。これからもっとお近づきになろうと思うの。いいかしら。(´◉◞౪◟◉)嫌よね?じゃ、手切れ金頂戴。」と、ジャブを打てば二度と電話してこなくなるでしょう。
私だったら、友人を交えて身の安全を確保しつつ、仕事せんでもいいくらいの和解金を要求して、会社辞めて左団扇で人生やり直しますな。ガハハ(*'▽')ふざけんじゃないよっつの、その男。
公表して、懺悔人生歩ませた方がいいんじゃないっすか?
半分冗談ですが、半分本気です。
あなたも騙され人生は今日限りにした方がいいっスよ。
そいつは間違いなく口のウマいド悪党。二度も子供を堕ろさせるサイテー野郎。
目を覚ましたければ、その人の家族、相手の親にこっそり真実を話しに行くことです。
公の目に晒されないから悪事がズルズル続いていくのです。
目を覚ましましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

そんなエネルギーがあるなら。

 私は続けてもいいんじゃないと思いますが、逆説ですよ。
 一人とはいえ10年も続いたというのはすごいですね。絶対、どこかで知り合いが見ていて家族にばれると思いますよ。知り合いにも気付かれず、2人も尊い生命も無くしても続けていくのはどんだけ凄いことか。自分たちの快楽と癒しのためならどんな犠牲も厭わないで、愛しているとは「そんなの愛ではありませんよ(怒)。」そんなの美しくも何とも無い。ラピュタのように「バルス」してしまえ。
 今はまだいいですが、もう10年続くと思いますか?多分、相手の方から裏切りにあうと思いますので心配せずに今のまま不倫を続けて下さい。そして、今まで何してきたかと絶望に陥るのです。
 ここで朗報です。そんなあなたには僧侶になることをお勧め致します。人を癒す力がこんなにみなぎっているのにこのまま一人に費やすのはもったいない。しっかり仏道修行すれば立派な僧侶になれるかもしれません。30代の今が体力的にもラストチャンスかもしれません。私の知り合いはあなたと同じくらいの年齢ですが、とある本山に職員として入り、縁があれば師匠に出会い出家を夢見てます。出家をするにはある程度の準備金が必要ですが僧侶になってみる価値はありますよ。そしてお亡くなりになったお子さんの供養と今まで自分が情に流され苦しんだ日々も少しずつ償っていくのですよ。
追伸
 出家する気になったらまた、相談してみて下さい。きっと良い回答をしてくれる僧侶が居ますよ。

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おきもち

目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

質問とお礼を拝見して一言。

愛じゃないというのは、これまでの10年間に失礼ではないでしょうか。
他の僧侶の方々の意見になるほど…とは思いますが、「愛してる」と言っていたことを無しにするのは簡単過ぎます。
ゆうさんは一生懸命、相手を思い尽くしたんじゃないんですか?
他の人の人生がどうなってもいいほど愛したから、沢山の人と自分を傷つけたのではないんですか?
それだけの愛でも、片道通行では「都合の良い女」になってしまう。
人は相手に見返りを求めます。同じ表現の愛じゃないと、相手や自分を責めて、足りないものを正当化してしまう気がします。
因果応報と仰いますが、ゆうさんが裏切られる可能性も、ゆうさんが自分を本当に大切にしてくれる人を裏切る可能性もあるんです。
どちらが虚しいですか?
私は、大好きな人を裏切る方が虚しいと思います。
浄土真宗では、どんな命でもお浄土に還って、仏となり、今を生きる私に寄り添ってくれてると聞かせて頂きます。
自分の意思で、中絶したお子様のところに行くなんて、子どもにしたら二重苦です。
自分の命をかけて、ママを大切にしてくれる人と出会って欲しいと願ってくれた尊い命だと私は思います。
自分を卑下することは簡単です。お子さま達のためにも「ママ頑張って幸せになるから、見てて!」と奮起してみてはいかがですか?
ゆうさんの愛は素晴らしいですが、相手の方は愛とよべません。好きな人の悪口でごめんなさい。

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おきもち

普通のOLから、結婚をきっかけに仏教に興味を抱きお坊さんになりました。 離婚・再婚などなどお坊さんらしくない、経歴もありますが、様々な経験をしたからこそ仏教に出遭えたんだと前向きに捉えています。 仏の教えは、慈悲や優しさだけではありません。 自分を見つめ続ける、厳しい教えです。その先にある慈悲の素晴らしさを少しでもお伝えして、ともに味わっていきたいと思っています。 仏教は生きるための教科書だと思っています。まだまだ勉強が足りませんが、悩み考えて仏教を深めていっています。 少しでもお役にたてるように私自身も勉強させていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

質問者からのお礼

ありがとうございます。本当にそのとうりですね。愛なんかじゃなく快楽なんですね。そう思いました。すーッと。水子供養も毎年1人で行っていますが、それも自分が許されたいとゆう甘えですね。不倫で私に来てることで奥様を裏切ってる人は私をいつか裏切るのもそうだろうと思います。因果応報ですね。自分の未来を壊してる。。2人の子供のところに行く。。そういう風に考えるようになりました。ありがとうございます。愛じゃなかった。それだけのことですね。情けないです。

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