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別れてずるずると

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有り難し有り難し 23

2年付き合っていた彼氏と去年の夏に別れました。

彼の方から別れようと切り出され、悲しくて毎日泣いてましたが、こんなに考えてもしょうがないと思い出して立ち直ることができました。

それから一ヶ月もたたないうちによりを戻そうと言われて戻しましたがまた一週間後に別れて、また付き合って別れてを繰り返していました。

今は付き合っていないのですが、休みがあえば遊びにも行きますし、体の関係も続いています。
いろいろな方と遊んではみましたが、楽しくなくて、やっぱり彼に戻ってしまう感じです。

最近また付き合ってみる?と言われましたが、わたし的に付き合えない理由があります。

ばればれの嘘をつくことがある。
(嘘っぽいけど嘘と認めたことはありません。)
それが不安の元になっていろんなことを疑ってしまう。
その度に聞くのですが、疑われるのが嫌で怒られる。

が理由です。

でも今までで初めての彼氏で、疲れててもあえば疲れが飛ぶくらい落ち着くので、やっぱりこの人しかいないのかなとも思います。

出会ってそろそろ3年目なので落ち着くのは当たり前なのかなとも思います。また戻りたいという気持ちはありますが、一回ダメになって別れたのだからまた戻って同じことになるのが怖くてなかなか前に進めません。

長々と申し訳有りません。
なにかいいアドバイスをお願いします。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

効き目の無い薬は飲まない方が良い

あなたが毎月10万の高額な薬を飲んでも病気が治らなかったといたします。
「ゼッタイ痩せます!リピーター続出!」
飲んでも痩せまへん。
「ゼッタイ痩せます!劇的効果!」
飲んでも痩せません
つまり、その薬は効かないのです。ウソなのです。
男女関係も同じです。
「愛してるぜ」「好きだよ」「お前超サイコー」ウソです。(笑)
そろそろ、そういう事に気が付いてもいいのではないでしょうか。
表向きのビンに貼られているラベルは、恋愛とか、愛とか恋とか、永遠とか、書いてあるような…気がします。ですが、すぐに…別れる。
つまり、それが答えです。
すぐに別れることが一番のあなた達二人の答えです。
他のラブラブな関係の人たちは、何度も別れたりする事はありませんから、このままズルズルと変な腐れ縁になると後々、結婚してから後も不倫やら、依存やらになるので、バッサリ、縁を切っちゃった方がいいでしょう。
ウソつき野郎は、一生ウソつき野郎です。
「オレはウソついていないよ」とウソをつくのです。
「ゼッタイ嘘じゃないって、マジホントだって。」とうそをつくのです。
あなたにも自分にも嘘をつきます。
そうではないことを「そう」だという。言い張る。
真実が捻じ曲げられ、心が屈折してゆく。
すぐに別れる理由の一つに、そういうUSOがあちらこちらにあるのでしょう。
カンケイもUSOだったからこそ(グサリ)続かなかったのです。
だから、あなたも真実の関係か、真実のパートナーかを見極めれば結論はすぐに出ます。
男も、自分自身にもウソの無い人生を歩みましょう。
効かない薬は、薬にならない。
「愛している」とキレイな言葉で飾っても、愛の無い関係であれば、それは愛ではなく、体だけのカンケイ。ア・ソ・ビ。嘘火。USO美です。
自分の嘘にこそ気づいてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
きっぱり縁を切るのが怖くて嘘に気付けてなかったのかもしれません。
嘘をつくってなかなか治りませんよね。
頑張って次に進みたいと思います!
ありがとうございました!!

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