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息子にお寺の体験をさせたい

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プロフィールの通り息子の障害に向き合い、日々の感謝や自分と向き合う時間を作るためにお寺での体験を考えています。
親と離れた時間の中で、普段感じられないようなことを学び、そこで何か得られるのであればと考えています。

障害があるのなら、何が1番息子にとって良い刺激になるか悩んでいる中で行き着きました。
しかし、発達障害をもっていて体験はできるのか気がかりです。

障害の程度としては、心の発育遅れのため会話も出来ますが年相応では無いといった感じです。
難しい説明は分からなくても、端的に伝えて上げると理解はできます。
感覚としては小学2年~3年生くらいでしょうか。
実年齢は中学生です。
良い体験になればと思います。

何かアドバイスなどありましたら頂けると幸甚です。
よろしくお願いいたします。

2023年9月21日 3:17

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏の修行は万人が受講可能

(^_-)-☆受講というわけではありませんが誰もが学ぶことができます。
ぜひ、親子で学んでみようと志してみてください。
ですが、仏道修行というのは結論を先に申し上げますと、場所ではない。時間帯がどうかでもない。
いつでも、どこでも、この自分が。そして、この自分の心を「どう」扱うか。
その「どう」扱うかのポイント、コツを得れば合格です。
だって人は、この自分の心の運転が乱暴だったり、状況把握が上手に言ってないから思った心、思ったことという脳内情報で心が乱されるというだけではないでしょうか?
禅語の「直心これ道場」といわれる本当の意味は、直心という素直な心がそのまま道場であるという意味ではなく、この自己に映し出されている今の世界のみが永遠にこの自己の真実の姿であり、修行のありかであるということなのです。
そこで「どう」おこなわれるか。
「どう」ということもいらないぐらい、そのままでいるということを明らかにすればよいのです。
人は何かを変えようとするでしょ?
外のことを変えようとする。
わが子にこうあってほしいとあれこれ願う。
やってみることは大事です。
ですが、何をする上においても大事なことは、この人間というものが自分であれわが子であれ、本当に受容可能、同居可能、反発無しでいられる環境であるかどうか。過敏な人ほど苦しみは多いのです。
どこかに行こうとする、向かおうとすると環境が変わるからいやだと思う人もいるでしょう。
だから、あれこれやる前に、この自己というものがいつでも24時間営業でいつでも今のこととだけ同居・同期していることを学ぶ。ノンラベルの「今」という永遠フレッシュな相手との同居人こそが自己の正体なのです。
それを明らめるのが仏道修行です。
だって、人生この今という永遠フレッシュな今という同居人とのやりとりが「どうか」だけなのでは?
我が家も発達障害とは言いたくありませんが、超絶個性を持っている子がいます。
人は誰もが発達途上で、超絶個性の持ち主というだけ。発達障害という言葉もそろそろ改められるべき時代だと思います。
ああ、この子はこのこのままでいいんだ。
ただ、恐れなく、困ることなく安心させてあげるサポートを大切にしていこうという気持ちでともに歩んでまいりましょう。
当山では坐禅会を通して大人も子供も関係なく、人間の本来の心を明らかにする為の話をしております。

2023年9月21日 8:36
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速のコメントいただきありがとうございます。
自分を知るために自分と向き合うよう息子共々日々行ってます。
自分も息子もまだ自分の心の扱い方に悩む部分もあり、何が正解なのか分からず悩むこともあります。
『 こうなりたい』と願う自分になれないと悩む息子に、何をしてあげられたら良いのかと考えています。
自分の心を明らかにするというのはとても大切なことですよね。
是非座禅など体験してみたいと思います。
ありがとうございます。

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