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自我の抑え方

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こんにちは。私はもともと頑張り屋の上に成功欲が強く、常に目標に向かってコツコツ努力する人生を送ってきました。そのせいか、人に対してすぐにアドバイスしたがる所があります。つい自分と人を比べて自分が上に立っていることを無意識に確認している気もします。成功体験により自我が肥大化し、そのせいでプライドだけが高くなり生きづらくなると思いました。自我をなくすことは難しいですがせめて肥大化させず、上手くコントロールさせるおすすめの方法があれば教えてほしいです。

2023年12月13日 8:27

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お供え物に学ぶとよいでしょう

お寺のお供え物のお花やお菓子、よき香りというものは誰もが救われるものを象徴として供えるのです。
良い香り、癒し、救われるもの、仏の道理にかなった法食。そういう姿勢なのです。お菓子は子供からご年配の方まで食べられるものです。お刺身やステーキなどは供えませんよね?それも「万人に通ずる」という丁寧な姿勢があるのです。
寒い人には温かさを、のどの乾く人には潤いを、歯の弱い方にはやわかなるものを。お釈迦様の対機説法のように相手にとって救いになることをやってさしあげることですよ。
あなたが相手に対して自分がやっていることが愛される配慮であるかをみつめて、これは自分もこんな風に言われたらいやだろうなぁと思って感じ悪くしてしまったことは相手にちゃんとあやまる。そして、今後は改める。それだけでいいのですよ。
お釈迦様もすべての人に敬いの気持ちをもって敬礼されたという故事があります。立ち位置が上から目線ではないのです。
禅では「勝他の念」といって、勝ちにいこうとする心理はいやらしいものとされます。恐れが根底にあるから人は上から目線になったり、マウントをとろうとしたり、偉そうな態度になったりするのです。
スラム街の多い国で威張っている危険なオーラを持った人も実は自分を守ることに必死なの姿なのです。ガラが悪い、態度が悪いということは、この安全な日本という国にあっても同じ。人は自分が育った環境・心理的背景によって保身や防衛心理から「そういう上から目線な」セルフ安全策態度になってしまうのでしょう。ある人はいつも上から目線な威張りマウント態度で人に接します。深層心理に恐怖心や不安な心理があるのでしょう。我が強い=自分の先立つ何かを優先している姿ともいえます。立派なお坊さんは先輩僧侶でも私めごときに対しても丁寧語を用いられ皆を尊重されるのです。
それは、ちゃんと仏の道理に基づいてすべての人に守るべきものがあり、愛される人がいて、大切なものがあるということをちゃんとわきまえているから、誰が相手であっても作り事ではなしに丁寧な態度になるのだと思います。
よって、我をなくすには無理な謙遜をするのではなく「ああ、この人にも愛すべき家族があり、脅かされたくない心理的聖域があり、私と同じように安全に安心して暮らしていたいのか」という共通項目を見出して共鳴した上で中から発せられる言動を大事にすることです。

2023年12月13日 9:36
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答くださりどうもありがとうございます。心より感謝いたします。毎日お言葉にあることを実践しようと思います。仏さまのお供え物で私が一番好きなのはお花です。自分自身もまわりの人にとってお花のような存在でいられるようになりたいです。
思い切ってこちらに相談してみて良かったです。本当にありがとうございました。

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