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同性からのマウンティング

回答数回答 1
有り難し有り難し 17

私は独身で親の家に住んでいます。
働けば体調を崩すを何度も繰り返してどうにか生きてます。

パートに行くと既婚女性が自慢をしてきます。
自分は結婚して子どもがいること。

別にそれは構わないのですが、私のことを根掘り葉掘り詳しく聞きたがり、最後は私を子ども扱いして馬鹿にしてくる人がいます。

結婚も出産も本当は個人の自由なので、笑われる筋合いはないのに不快です。

同性のセクハラだと思うので本人に気づいて欲しいですが、角を立てたくないです。

2022年10月18日 14:31

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己防衛のために相手の承認欲求を満足させるリアクションを

「いやー、自分まだダメなくらい幼いんでぇ(´-`*)」とか言っておきましょう。
相手はそれでこいつはアタシに敵意を持っていないな?という安心感が生じます。「可哀そうな生き物だ」と思うぐらいで良いのです。
その後、他の同僚であなたをダシにまた優位性を保持する為に話を膨らましてあらぬことを言いふらすでしょうが、それはその人のマーキングです。猫でいうとあちこちにここはアタシの縄張りだからな?とおしっこをまき散らしているようなものなのです。
マウントを取ってくる人は男性であれ女性であれ自分に恐怖心を抱えている人と心得ておきましょう。強い人間は決して威張らない。何もない人間は何もないから不安を抱えている。劣等感にとりつかれた人が相手に自分より弱いところを見つけるとすぐにデブだの不細工だの悪口で優位に立とうとするような人たちがいるでしょう。あるいはそういうゴシップ系は今でも多くの人たちが群がる話題でもあります。
そのぐらい人間というものは総合的・総体的に、「かなしいよわさ」をもっているということなのです。
見抜いてください。
👁💦
あなたの弱さや自分がここなら勝てる!と思ってようやくあなたのそこを見つけては、自分が知られたくない劣等感を隠そうとしているマウントを取ってくる情けない心理を。
相手の弱さを見つけては目をキラキラしているあの情けないぐらいに哀れで可哀そうな謎のマウント心理を。
マウント取らないと自分の存在意義を感じられない可哀そうな「消えそうな」生命体を。
あなたがそこを見抜いて、わざと「負けてあげる」のがあなたのその人に対する施し、ある種の布施です。
もうちょっと人間性が高まる可能性のある人であれば、そこで「あなたが克服したい劣等感がそれで晴らせるなら、どうぞ好きなだけマウントとってください。」と。
「でも、それではあなたは自分の徳を下げてしまうから、私はあなたの為を思って申し上げます。安心してください。わたしにはそういうことは不要ですよ。」と。
人間は学生時代から社会、集団生活でみんな傷ついているのでしょう。
そして、その傷をいやす方法を知らない。
だから、自分より弱いものを叩いて安心しようとするのでしょうが、尊敬できる内容を持っていなければ人は人の上に立とうとしてはいけないのです。
あなたも自分の我を滅する修行だとおもってタイトルを実践してみて下さい。

2022年10月18日 16:41
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様

ご回答をありがとうございます。

自分も完璧では全然ないし、相手も心に弱いところがあると思って、なるべく怒らずに大らかに人間を見ていきたいです。

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