かわいそうと思ってはいけないのか
障がいのある方、被災した方、いじめられたり虐待された子ども、性被害にあった女性、パワハラを受けた男性、重い病気の方、ペットをなくした方、多頭飼育崩壊の犬猫など、私が彼らのことを思う時に、私の心に浮かぶ感情に名前をつけるなら「かわいそう」だと思います。
細かく分類すればそれぞれ少しずつ違うと思いますが、それをうまく表現できないので、総じて「かわいそう」だと思います。
(暴力でしか自己表現できないような人を「かわいそうな人」と思うことがありますが、この「かわいそう」は先の人たちのとは違うという意識はあります)
ですが、当事者の方には「かわいそうと思ってほしくない、そう思うのは見下しているからだ」という意見があります。
傷ついている相手に寄り添いたい、力になりたいという思いは「かわいそう」だからだと思っていたのですが、間違いだったのでしょうか。
私のこの感情は、正すべきなのでしょうか。
それともこの感情には違う名前があるのでしょうか。
「かわいそうというのは差別だ」という意見を見て、そしてその意見が支持を集めていて、自分の中に無意識の差別意識があったこと、かつてそう思い行動したことで相手を傷つけていたかもしれないこと、自分の感情を否定されたことにショックを受けたので、質問させていただきました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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思ってはいけないからと思わなくできるものではない
ご相談拝読しました。
まず、可愛そうと思ってはいけないわけではないでしょう。というか「○○と思ってはいけない」という感情はないと思います。感情というのはある種人間における自然現象のようなものだからです。
「○○と思ってはいけない」からそうは思わないなどとコントロールできるものではありません。かわいそうだと思う条件ととのえばそう思いますし、怒りや悲しみや喜びもそうです。そう思うときは自然と思うもの。
問題はその先にあるのでしょう。
浮かんできた感情そのままに行動するかどうか、あるいは、その感情を他者に伝えるかどうか。
そこには段階があるように感じます。確かにあなたの例では可愛そうと思われたくない人もいるでしょう。一方で、可愛そうと感じたから行動したというあなたの行動原理もけして悪いとは思いません。
ただ、それを内に秘めたものとするのか、相手にも伝わるように動くのかとか、そこに今は配慮が求められる時代なのだと思います。
あなたの感情はあなたのもののようでそうでもない。あなたですらコントロールできないものなのですから、あなたに浮かんできた思いを否定する必要はありません。
晴れも雨も風も自然。喜びも悲しみも哀れみも怒りも自然。それを評価するのは人間の都合であり二次的な作業なのだと思います。
質問者からのお礼
お答えありがとうございます。
感情は自由であってよい、大切なのはその後の行動であるという言葉に納得し、心が軽くなりました。
相手がどう思うかに気をつけて、また、相手の言葉をよく聞いて行動するよう努めます。