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誰かの「目」や「顔色」が気になります。

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初めて投稿させていただきます。

私は世間の目や人の顔色を気にしすぎてストレスを抱えます。

例えば満員電車やバスの中など、「自分が変なことをしたら仕打ちが来る…」と被害妄想に陥ってしまうのです。
家に帰っても落ち着けず、「自分が役に立たないから不機嫌なんだ。」と両親の顔色を伺ってしまいます。
何とかしようとしても空振りだらけ。「私はどうせ生きてたって役に立たない!」と考えが歪んでしまいます。
昔いじめられたことなどが原因かもしれません。

どうしたら顔色を伺わずに、リラックスした状態で過ごすことができるのでしょうか?
他のご相談者様と重複するかもしれませんが、ご回答のほどよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

脱・自己ネガティブ意識

こんにちは。プラス思考講座の講師のタンタンたんげです。
人の目が気になる、人の顔色が気になるという事の実態は、あなたが人の顔色をうかがって、その直後、あなたの心の中でマイナス・ネガティブ意識をたくましゅーしているということなだけなのです。
赤い色を観て血だ、おそろしい、白い色を観て、死に装束だ、おそろしい、黒い色を観て、霊柩車の色だおそろしい、と思うのは当の本人の責任です。
ここでお気づき頂きたいのは、ネガティブ意識の連鎖をあなたが発生させている、ということなのです。良く言えばそれは、防衛反応なので必ずしも悪いことばかりではありませんし、用心深いという面においては良いことなのですが、あなたの場合、それが過剰になって自分を不安にさせているのです。
よって、自分の内面が、普段悩みを起こすときに❝どういうことをやっているか❞を観察することをお勧めします。一番イイのは押し売りではありませんが、坐禅です。
サイタマならお近くでしょうから、毎週日曜日に遊びに来て頂ければ、すぐに良くなりますよ。(^<^)
自分のネガティブ意識から卒業する。
自分の思いそのものから離れたものの見方をする。
自分が自分に縛られない生き方をする事で、誰と目を合わせようとも、誰の顔色が不機嫌だろうが、あなたはアナタとして別箇に自由に開放的に生きられることを保証いたします。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自己肯定感の滋養へ向けて

青うめ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

世間の目や人の顔色を気にしすぎてストレスを抱えてしまわれる、私はどうせ生きてたって役に立たないと考えられてしまわれるとのこと、やや自己嫌悪や自己否定、自己卑下の想いが少し強くあられるのではないかとお察し申し上げます。

「自己嫌悪」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_368048.html

『・・私たちは一人で生きている、また生きていける存在ではありません。必然的に他との関係、繋がりにより成り立っている存在であります。このことを仏教的には「縁起」的な存在と申します。・・』

縁起的な存在のあり方としては、上手に頼り、また上手に頼られるという適宜な関係性が一つのポイントになると存じております。

そこで、自己嫌悪や自己否定、自己卑下を解消するための「自己肯定」感の向上が一つの鍵になるのではないかと存じます。

もちろん、あまりに自己肯定が強くなりすぎて、それが「慢心」になってしまうと、それはそれで問題となるためバランスが大切となりますが、とにかく、何か一つでも他の人よりも得意なこと、うまくできること、あるいは資格などを身につけられて、それを研鑽されることで、色々な人から上手に頼られるようになさられることでの「自己肯定」感の滋養をお勧めさせて頂きたいと存じております。

また、独立・自立ということによっても、自信や自己肯定感の滋養へと繋がることもあるかとは存じます。一度、親元・実家を離れられて一人暮らしを始められることなども良いかもしれません。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
正直、自分自身で足枷を作っている自覚はありました。どうすれば取れるのか分からなかったのです。
丹下さんのそのときどんなことをしているのか? この問いでやっと分かりました。

何も相手が嫌がるような悪いことや迷惑なことをしていなかったんです。

もしかしたら相手の望んでいる行動(例えば、家事手伝いや仕事をするなど。)をしないことに不安を感じていたのかもしれませんし、
自分で誰かの「目」を勝手に作っていたかもしれません。
ずっと私が〜、ワタシが〜と考えてきました。

自分が作った幻(=自分の思い・感情)がネガティブの原因で、それを選択したもの私だということ。
自分という軸からすこし離れて見るようにしてみます。
まずは簡単そうな紙に書いたり、ぼんやり考えてみます。

いつかお寺にも行ってみたいです。ありがとうございました!

ご回答ありがとうございます。
正直、自分自身で足枷を作っている自覚はありました。どうすれば取れるのか分からなかったのです。
丹下さんのそのときどんなことをしているのか? この問いでやっと分かりました。

何も相手が嫌がるような悪いことや迷惑なことをしていなかったんです。

もしかしたら相手の望んでいる行動(例えば、家事手伝いや仕事をするなど。)をしないことに不安を感じていたのかもしれませんし、
自分で誰かの「目」を勝手に作っていたかもしれません。
ずっと私が〜、ワタシが〜と考えてきました。

自分の作った幻(=自分の思い・感情)がネガティブの原因で、それを選択したもの私だということ。
自分という軸からすこし離れて見るようにしてみます。
まずは簡単に紙に書いたり、ぼんやり考えてみます。

いつかお寺にも行ってみたいです。ありがとうございました!

お礼の回答が重複してしまいました。申し訳ありません!

川口様、ご回答ありがとうございます。
現在、電車などでパニックや被害妄想は治まりつつあります。
ですが先日倒れてしまったため、今だに恐怖を感じております。少しづつ直していきたいです。
ご回答の中で誰かを頼り、頼られる関係を築くことに深く納得しました。
自分の得意分野で誰かの役に立つ。自己肯定感を得るにはこれが一番だと思います。
自分は何が好きか、何が得意かを見つめ直したいと思います。
ありがとうございました。

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