古くからの縁に対する違和感について
お世話になります。
宜しくお願いします。
今回は、古くからの友人に対する違和感についてご相談したく、ご連絡しました。
私は去年の春に適応障害を患い、約半年間の療養を経て今に至ります。来月からは次の仕事が控えており、これらの出来事は、私の人生史上で最も大きな影響を自らに及ぼしたかと思います。
こうした環境下で、自らの思考や感性、行動が、それ以前と比べてかなり変化しました。その変化は、まさしく成長と呼ぶに相応しいと自認しています。
しかしながら、ここで問題が生じます。古くからの友人との会話に違和感を感じ始めたのです。今まで感じていなかった相手の短所、価値観の不一致などがふつふつと湧いており、今までフタをして閉じてきたものが、溢れてしまいそうです。変わってしまった自分を悲しく思うも、それが自分の成長の証であるかのように考える自分がいることも事実です。
ただ、そんな自分を肯定しようとするも、そうなってしまったのは自分が不寛容だからでは?ただの完璧主義なのでは?相手を許すべきなのでは?相手を見下しているのでは?古くからの縁を大切にすることは徳を積むことなのでは?などと、自分自身を責めることもあります。
一体私は、こうした変化をどのように受け止めればいいのでしょうか。今の私は、善悪で言うところの悪なのでしょうか。
ご教示頂ければ幸甚です。
何卒宜しくお願い致します。
他者比較 過去の自分への自己嫌悪 夢や希望がない 好きなことがない、趣味がない 生きがいがない 特技や能力のない自分を愛せない 欲の多さ
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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煩悩が発動しているときは悪
欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩は、自分や他者の悩み苦しみストレスを増やす原因になります。
なので、欲・怒り・怠け・プライド等が発動しているときは悪の心である可能性が高いと考えてはどうでしょうか。
人は変化します。
だから、古い友人ともレベルが合わなくなることは自然現象ですね。
ただし、自分と他人を比較して優劣を気にしたりするプライドの煩悩も、悪の心になります。
自分の方が上だ、自分の方が下だ、自分と相手は同等だとかは、その評価が適切であったとしても、比較して優劣を気にする思考回路自体が実は煩悩(ストレスの原因になる悪の心)なのです。
ということを一応理解しておきましょう。
でも、私達はブッダのように悟っていない(まだ成仏していない)ので、そのような煩悩の波に意識が飲み込まれることもまた、自然現象みたいなものかもしれません。
どんな悪い心(悩み苦しみストレス)も、心のスクリーンから必ず過ぎ去る一過性の映画だから、安心してください。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
新しく仕事が始まり、自分が忙しくなったことにより、他者へ向けられるエネルギーが和らいでいきました。
豊かな心を持った人間でありたいです。