「縁」について仏教的な解釈を知りたい
※「運命」カテゴリかもしれませんが、人間関係カテゴリにて投稿いたします。
当方、30代女性です。
「縁とはなにか」について考えを巡らす体験があったので、ぜひ仏教的な解釈でお言葉をいただきたいです。
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元同僚の男性と、たまたま2人で食事する機会があり、個人的に仲良くなりました。
初対面の頃から「この人とは仲良くなりそう」と直感し、仕事でも相性が良かったのですが、
プライベート面でも驚くほどたくさんの共通点(趣味嗜好、ゆかりのある土地など)があり、声も雰囲気も居心地が良く、縁のある人だと勝手に感じていました。
ただ、電話もLINEもよくするのにタイミングがすれ違うことばかりで、なかなか会うことができなかった。
(約束をしてもコロナにかかって会えなかったり)
そうしてる間に彼には別の想い人(偶然再会した元恋人)があらわれ、
「好意はあるけどこれ以上親密にはなれない」とふられました。
一応両思いだったのに、交際には至りませんでした。縁があるのかないのかよくわかりません。
身内や友人含め、出会ったすべての人の中で一番共通点の多い方でした。
そう思っているのは私だけかもしれませんが、前世の繋がりがあったのでは、と、スピリチュアルなことを考えていしまいました。
彼がたまたま再会した元恋人も、これまた縁によるものだろうと思っています。
彼には幸せになってほしいと思いますし縋ることはしませんが、
こんなにも共通点が多い人にはもう出会えないと思うので、もし彼と縁があればまた会えると言い聞かせてしまい、未練に酔って前に進めずにいる自分にため息が出ます。
縁の力には逆らえないものでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
縁は決定論ではない
縁とは、さまざまな要因や条件が複雑に絡み合ったものであり、単純な決定論ではないという意味でしょう。
もちろん、神仏によって宿命付けられているとかでもありません。
複雑なご縁の影響を受けるのだから、自分一人の力では全てをコントロールできないのが当たり前。
かと言って、自分の努力が全く無意味・無駄というわけでもない。
順調なときにも感謝や謙虚さを忘れずに、不本意なときにも自分や他人を責めすぎずに。
種を蒔いても芽が出ないこともあるが、蒔かないなら芽が出る可能性がゼロになるので、蒔き続ける方が良い。
それが「縁」に対する取り組み方ではないでしょうか。
今年芽がでなかった種が来年芽を出す可能性もありますが、そればかりを期待して新しい種を蒔かないのも勿体ないですよね。
質問者からのお礼
ありがとうございました