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許せない

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昔やられた仕打ちを許せないし気づかなかった自分にも腹が立ちます。思い出す度にイライラし、思うようにことが進まずイライラして悪循環です。どうしたらイライラが止めれるでしょう。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず、ご自分を認めましょう。

昔の事を思い出してイライラとする自分を、まず自分の中で許してあげましょう。
そんな自分は認められないという思いが更にあなたをくるしめていると思います。

嫌な事があったんだから、それを思い出して許せなかったりイライラすのも仕方ないなって
そう思って、まず、そのような状態にある自分を認めてみて下さい。

あの時は辛かった…そんなこともあったさ…って
良く耐えたよね…って。

で、次に顔を上に向けて
「よし!次に行くぞ!!」と自分にかけ声をかけてみましょう。

今の貴女は昔の貴女ではありません。
しだいに嫌な思いや許せない気持ちは和らいで行くと思います。

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おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

相手にしたら相手が一番喜ぶ

「人にはバカにされていろ」
これはお釈迦様の教えではなく、居酒屋によく貼られている「親父の小言」の中の一つです。
相手からはどう思われたって良いのですよ。
当の本人も今頃ケロリと忘れているもんです。怒るだけ損、損。
あなたが今誰かの事を「あいつめ」「こんにゃロメ」と思おうが相手には何の影響もございません。
いくら憎んだって相手はあなたからどう思われようがどこ吹く風です。
これを逆に考えて、相手からどう思われていようが、気になさらぬことです。
今現実に目の前にいない相手に腹を立てる事は、一人相撲以外の何でもありません。
自分の心の中に虚妄、虚像の相手を思い描いている。
戦おうとしたって戦えませんよ!(相手がいないし、その相手は自分のイメージなのですから)
仏教は、憎む相手の正体とは、自分の中の虚像の相手でしかなく、自分が作り出したものであると説いています。つまりリアルの相手ではないのです。自分の心の中のセルフイメージなのです。だから実際の党の本人はあなたの思いとは無関係な活動をしているはずです。
怒りの正体、キライな相手、憎い相手の正体は、実は自分の思いであるという事を見抜けたら、あなたはご立派です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

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