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母との確執

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母自身、母親の愛情不足の生い立ちがあり私を産み育てる上で何事も自分で決めて生きてきた人です。しかし、母親であろうとする愛情が強いのか、私の幼い頃から周りと私を比べ出来の良くない娘に厳しく、私も学生の頃から心配をかける行動をしてきました。些細なことで母の機嫌を損ねる度に過去の出来事を言われ続けています。言う方はどんな気持ちで言っているのか50を過ぎた今でも過去の出来事を鉄砲玉のように言われます。私の事も私の子供達に全て話してます。父親も過去の出来事を何かにつけて言われてます。父は反論しません。

私も自分の生きてきた道を反省はしているのですが、母と話す時はいつ不機嫌なスイッチが入るかとびくついてます。

先日、私の夫にも私の過去の出来事を全て話していました。今後どう接していば良いのでしょうか? 私の息子も私を母として軽蔑しています。私の生きる意味は何なのでしょうか?私の娘は私をとてもかばってくれています 。 勿論娘も私の過去の出来事を私の母から聞かされて知っています。1度火がつくと相手の過去を責め続ける母の心がわからなくなります。 私が不幸のどん底で母と暮らすことを望むのでしょうか? 母は、今年、私の息子を自分の養子にしました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それでも母を誉め 肯定し 承認し 称賛するのです

おかあさんは、あなたにお母さん自身を投影しています。
自分の自信のない所、嫌いな所が目に付く鼻につくと突っ込まずにはいられんのじゃ。あなたもかわいそうじゃ。お母さんもかわいそうじゃ。かわいそうにのう。ほんにのう。(広島弁)
インナーマザーという言葉があります。
あなたの内側の、内面のイメージ上の母ちゃんということです。
それに対してリアルマザーは、実物のリアルタイムで動いている母ちゃんです。
そのリアル母ちゃんとインナー母ちゃんの違いを見極めることであなたの悩みはケロリンです。🐸
お母さんに会うたびに、
「ああ、やれやれ、今日も母ちゃんが私に毒づくかもしれん。」と思うでしょう。
わかります。おかわいそうにのう。ほんにのう。(広島弁)
うちの母ちゃんも同じですけん。母親というのはそれが愛情のつもりなのです。子どもにとっちゃ、ひーですが。
さて、今から母ちゃんが口を開くとあなたのことを悪く言うかもしれませんし、全然関係ないことを言うかもしれません。
ですが、まだ言っていません。ここが大事なのです。
あなたは母ちゃんが言う前から勝手に自爆して傷ついてしまっている。
それはインナー母ちゃんで、あなたの中のイメージ上の母ちゃんなのです。
リアルマザー、リアル母ちゃんは、まだ口を開いていません。
仮に必殺の悪口、毒口、毒霧攻撃(笑)が始まったとしても、3歩進んで4歩下がってください。
自分のことにしなくていいのです。
母ちゃんが勝手にインナーお嬢ちゃんである、あなたの幻影相手に、グチグチこぼしているだけで、リアル娘のあなたは、本当は母親が発する悪しざまな言葉や情報とは別行動をしているはずです。(深い根ねー)
わかるまで読みかえしてください。
世の中の方はみな母親に苦しめられています。
自分の中の母親虚像と、実物の母親との区別をつける。
口を開く0.0001秒までは、あなたはインナー母ちゃんを相手にしていたんだ!ということを見極めれば半分合格です。
毒づかれても、ナイススルーしてくだい。ピッチャーはキャッチャーがいるから成り立ちます。
広島カープのピッチャーが毎回暴投するなら、あえて、キャッチしない。もアリなのです。
ルールに縛られない、が仏教なのですから。
ウソでもいいから、褒めてください。おかあさんは愛が足りていないからです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

有難うございます。読みながら涙が出ました。わかっているつもりでしたが、やはり長年言われていると、素直になることができませんでした。教えていただいたことを実践していきます。母の為に、子供が為にそして自分自身のために。本当に有難うございます。合掌(-人-)

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