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無我という概念の中で、自分と向き合うとは

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最近、私は仏教を勉強しています。その中で疑問に思ったことがあるので、二つ質問させてください。

①仏教では、無我、確固たる私はいないという考え方があると学びました。しかし、その一方で、自己と向き合う、自分を大切にするという考えがあることも学びました。無我が、自分という存在の否定であるならば、向き合う、大切にする自分という存在は矛盾しているように感じます。自分を大切にしよう、自分と向き合うとする時、自我がないと不可能ではないかとも思います。この私の考える矛盾はどのように捉えていけばいいでしょうか?

②仏教では、無我の状態にいることを重要視しますが、自分という存在を認識し、それを大切に思うからこそ自己成長でき、それに伴い幸福感を感じられるのではないかと思います。自我を持つことで、執着につながり苦しみを生み出すということはとても理解できますが、自我、私という感覚があるからこそできること、感じられる幸福もあると思います。私のこの考え方は間違っているでしょうか?

拙い文章ですが、回答していただけると嬉しいです🙇‍♀️

2024年8月19日 9:42

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「私」は実体ではなく観察対象となる現象です。

(1)仏教の「無我」でいう「我」は他から独立して存在し、永続する実体(アートマン)を指します。仏教はあらゆる事物は縁起によって刹那的に現象しているだけだとしているので、このような我はないといえます。
一方で、縁起によって今ここに現象している「私」という感覚は存在します。この「私」がどういう形で現象しているか観察し評価することは可能です。「善い行いをしている私」「間違いを犯した私」というような思いは、その都度の現象に対する観察と評価ということになります。しかし、現象は瞬間瞬間に生成消滅を繰り返していますから、「善人の私」「悪人の私」が実体として存在するわけではありません。
たとえると、船の航跡に似ています。船の航跡は北に向いているか、南に向いているか、どこから来たか、と観察し評価することはできますが海水や動いた船から独立した実体として存在しているものではありません。
(2)船の航跡のたとえでいうなら、どこに向かっているか、それが正しい方向なのか、どうすれば適切に調整できるか、と観察評価し修正することは可能です。しかし、それは航跡自体を永続させ保存することが目的ではありません。より良い方向により正しい方法で進むための観察対象であるということです。
仏教でいう幸福とは究極的には「お金の心配をせずに生活できる」とか「人に嫌われずに社交できる」とか「善行をして好い気分になる」とかいうような「私」にとってプラスかマイナスかということとは関係ありません。それらはご存じのとおり苦の種となる執着ですから、「私」という現象を観察して、そこにまとわりついている執着を見つけ減らしていくこと、それによって精神の静安が得られることこそが幸福であると考えます。

2024年8月20日 11:13
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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。
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虚無的な無我という概念を捨て、事実を花を持たせ主役にさせる。

①悟りを得られたお釈迦さまや祖師のご様子は、ちゃんとご自身を大事にされた生き方をされておられますよ。自己の身心は我というものが中心ではなく、もともとの様子が無我という救われたさまをしていると説いておられます。よって無我は概念ではなく、この世や人の救いのありさまです。人の価値や見解から離れた観自由自在な安楽なありさまのこと。そこにきちんと救いを見いだせないとドライな虚無的無我論(概念)に堕しますからご注意を。無我とは自己否定でもなく虚無的ドライ無我という概念でもない。仏というあったか温泉の効能書きの一部のようなものです。なってみると、ああ、確かに無我で無常で涅槃で安楽じゃわー♨と実感できます。そこのところを実現するために「自分を見つめて」「自分を大切(親切…親しく密接)に」せよというだけ。矛盾はありません。きちんと説明できる人が稀有なだけです。
②では人が心底本当に救われるためには何をどうすればいいか?
真の幸福とは自分サイドの見方を離れて事実サイドを主として和すること。乱雑な生き方をされている人が多いからこそ、自分を大切に、みつめて、自己とモノコトとの関係性を深く親密に見つめて、人間の思考の伴わないところを明らかにする必要があるのです。見つめていくと自由、静粛、無我、安穏と気づく。例えばものが見える、聞こえる、香り、味わい、感覚、呼吸…自分がやってる訳じゃない。だからこれも無我の働き。自分自分した先立てている幻想マイワールド&わたくしルールを捨てて、今起こっている事実サイドに花を持たせると人は自己の本来の静粛性(無我・涅槃)気づけるのです。無我とは概念ではなく【身心に自分中心なわたくし意識がまだ起動すらしていない所の見極め】なのです。世界はいつでも何処でも何でも「まだ誰もお手つきをしていないさま」でしょう。天気だって思い通りにならない。一切が人間ルールとは無縁な無我相です。この身心も無我。生命の働きとしての存在や痛みはあるけれど…、思考主体サイドを捨て、自然主体で事実の側に🌺花を持たせる。その姿勢になると安楽無我です。人間は考える生物ですから自分サイドからものを固定的、断片的、一面的にみる。物事に思考や概念の意味づけを添えて誤解してしまう。それは有我です。ものを自由にみる力がない観不自由。主役が自分サイドではなく、目前の事実サイドにシフトさせれば無我で観自在です。

2024年8月20日 7:10
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有り難し
おきもち

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ