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これからの人生

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有り難し有り難し 16

宜しくお願い致します。

私は現在ニートの20代の発達障害の男です 。
家族と借家で暮らしています。

子供の頃から他の子とは何か違うような感じはありつつ、
あまり気にせず過ごしていたんですが、
中学一年の頃に不登校になってしまい、
高校はチャレンジスクールというところに進学し、
専門学校にも学費をなけなしの貯金で通わせて貰ったにも関わらず、
すぐに退学をしてしまいました。

その後数年間家に引きこもりになってしまい、
最近になりハローワーク等にはいくようになったんですが、
仕事をしたくない、
なにもしたくないというような思いがなくなりません。

障害者の訓練所等の話もしてくれているんですが
同じ所に毎日通うという
ことが凄く嫌であまり話も進んでいません。

父親からは今年定年で貯金等もなく家族が生活できなくなる、
今すぐ仕事してくれないと駄目だと言われましたが、
何の能力もなく働きたくないとすら思ってしまっている、
今の私がまともに働けると思うことも出来ません。

散々迷惑しかかけてないのにそれでも面倒を見てくれた大好きな家族を
このままでは最悪の形で家族の人生を滅茶苦茶にしそうなのに、
それでも動こうとしていない、動きたくないと思ってしまっています。

これ以上家族に迷惑をかけるのならば自殺してしまった方が
いいのではとも考えるのですが、
今の所実際にするような度胸もありません。

こんな風に文を書くと改めてくず人間だと思います、
私はこれからいったいどうすれば良いのでしょうか、
助言等もしありましたら宜しくお願い致します。

長々と書いてしまい申し訳ありませんでした。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何もしない中であなたは何をしているのかを問うべし

(^<^)人間何もしない、といっても何かしてるもんです。
何もやっていない、といっても「なんか」やってるでしょう?その中身と質を今日、オノレに問うことです。
手足や体を動かすこと、アタマを動かすこと。何かしらアナタは、今もしているはずでしょう?
アナタは何かするときに、アタマでネガティブなことを考えながら行動することが「止まれば」問題なしです。
晴れの日運転の時にワイパーを動かす必要が無いように、ネガティブな事を考えながら何かをするというのは非常に無駄なエネルギーを使っているのです。
禅でいうところの「何もしない」=無心・無為・無作とは、「心において何もしなくなる事」です。ニートさんはニートさんでも、行動がニートの達人であれば、禅の無為に通じます。チョイとチャンネルを切り替えればポジティブな意味での精神ニート=無心になれます。
精神があれこれネガティブな事を考えなくなる無心なるポジティブ精神ニートになれば行為をするにあたって何の差しさわりもありません。何もしないということは次に何をするにも自由に動ける人になることです。
アレコレ他人と比較したり、過ぎた事を拾い上げて事を荒立てたり、次もこうなるんじゃないかと不安になったり…これらは頭の中の一室に❝暗き炎をトモしている❞ようなもの。⇒それをアナタは❝やって❞いるんだ。
アタマの中にはいろんな部屋があります。あなたはそのダーク&ネガティブ&無気力の部屋にできる限り近寄らないようにすることです。
禅宗では、坐禅をします。坐禅は、Aアタマの中のワールドとBリアルワールドの境い目がメチャはっきりします。おそらくほとんどの人間はAの頭の中のワールドしか知らない。
私もあなたのように無気力だるだる人間だった時は、同じ部屋の同居人でした。
そこから脱出することをこそ精神出家というのです。
あなたはAのワールドではあなたは黒帯、金帯なのです。
仏道は、Bのリアルワールドで黒帯、金帯になる事です。
坐禅会とは、分かりやすく言えば、自分が日頃Aのマインドの海に溺れていることを自覚したものが、そのダークな海から出てBの現実、事実のリアルの陸地で生活するための脳内筋トレです。
うちの坐禅会は世界一ヌルイ坐禅会で、あなたのような何も仙人サマの為に開かれているものですから、一度来てみてください。
事実の世界で生きる事の黒帯になりましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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