家の宗派と個人の信仰について回答受付中
私の実家は浄土宗であり、現在祖父のお墓がありますが、私自身が主で何かをする立場ではありません。祖父が当家で初めての仏様です。両親は健在ですので、現在は両親が主に見てくれてます。その状況も踏まえた上でなのですが、私自身は真言宗の教えで心が救われたことが多く、現在もご真言を唱えたりとしています。浄土宗を否定する気は勿論ありませんし、先祖を軽視しているわけでもありませんが、救ってくださったと体感している真言宗に宗旨替えを強く考えております。昔で言うところの跡継ぎというものは私しかおらず、しきたりに応じるならば不可能なのでしょうが、私がいざ生を終えた時には真言宗で送り出して欲しいという思いも強く。両親との話し合いをすべきということは重々承知の上で、今現在の私の立ち位置での私個人が宗旨替えを検討することは良いのでしょうか?
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの「宗旨替え」の願いは、非常にまっとうな祈りです
あなたの「真言宗に救われた」という思いは、深く尊いものだということです。
仏教においては、「宗派」は手段であって目的ではありません。
本来、どの宗派であれ、「人が救われ、心が安らかになる」ことこそが仏法の本質です。
あなたがご真言に触れ、日々の苦しみや不安から心が救われたというのなら、その教えを自らの信仰の柱としたいと願うことは、まさに仏縁の導きと言えるでしょう。
確かに、家の宗旨と個人の信仰に違いが生じることは、ご家族との関係やご先祖への思いから、葛藤が生まれるものです。
しかし現代では、家の宗旨と個人の信仰することが異なる事は、珍しいことではありません。
実際、以下のような形が十分に現実的です。
実家のご先祖の供養・法要は、今まで通り浄土宗で行う、あなたご自身の信仰は真言宗で実践する、将来的にあなたが亡くなった際は、真言宗の法式で葬送をしてもらうよう事前に希望を伝えておく。「家のしきたりを尊重しつつ、自分の祈りの道を丁寧に歩む」という選択は両立可能なのです。
真言宗では、個々の信心を重んじる教えがあります。
密教の教えにおいては、“自ら仏と一体となる道”を歩む者を尊ぶのです。
あなたのように「この教えで自分の魂が救われた」「人生を真言宗とともに歩みたい」と願うことは、大変尊いことであり、決して否定するものではありません。
もしご両親とお話をされる際には、ぜひ次のようなに語ってみてください。
「おじいちゃんや家のご先祖様への感謝や敬意は今も変わりません。
でも、自分が人生の中で苦しんだ時、真言宗の教えに出会って、すごく救われました。自分がいずれ旅立つときには、この教えとともにありたい。お墓や家の宗派はそのままでもかまいません。家を否定するのではなく、自分の信仰に正直でいたい」
このように語るあなたのまなざしは、きっとご両親やご先祖にも伝わるはずです。
宗派がどうこうではなく、あなたが「どのような教えに救われ、どのような道を歩みたいか」に気づいたこと、それを誰かのせいにせず、自分で引き受けようとしていること。仏道を歩む者の在り方そのものです。
どうか、自分を責めたり遠慮したりせず、静かに、自分の願いを育ててください。
あなたの祈りが、これからの人生を照らす光となりますように。
その光が周囲の人々の心もあたためる日が、必ず来ると信じています。
合掌
真言宗でも阿弥陀仏信仰はある
個人の信仰に基づいて宗旨替えなさることは本来の姿であると思います。
なお、私は浄土宗僧侶ですが、浄土宗で最も大切なことは、あなたが極楽浄土に往生できることです。(どこの宗派に属しているかではなく。)
その観点で申し上げますと、真言宗においても阿弥陀仏信仰・浄土信仰はありますので、そのことを頭の片隅に残しておいていただければ幸いです。
真言宗信徒でも浄土宗信徒でもキリスト教徒でも、念仏すれば極楽浄土に往生できると私は思います。