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諸行無常や空が虚しく感じてしまう回答受付中

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有り難し有り難し 11

仏教では諸行無常=全ては移り変わる。空=全ては実体がないと考えますよね。間違っていたらすみません。
苦しい時に、この考えはすごく助けになります。今辛いのもいつか終わる。全ては心が見せてる幻だって思えば少し楽になれます。

ですが、楽しいや嬉しい時にこの諸行無常や空の考えを虚しく感じてしまいます。この楽しいこともいつか終わるのか、これも幻なのかって思って虚しく感じてしまいます。

楽しい時や嬉しい時はどのように考えれば良いのでしょうか。

2024年9月23日 19:20

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

色々ありますが

 諸行無常…すべては移り変わり一瞬でも同じことはない。確かに苦しい時は、この苦しみもいつかは終わり楽しい時も来る、と信じて耐えたり頑張ったりしますね。逆の場合、ああこの楽しさにも終わりがきてやがてまた苦しみもやってくると思うと虚しくなり、楽しみを楽しみと受け取れなくなる、その通りだと思います。
 でも楽しい一瞬は楽しい経験として自分の中に残り、苦しい時の力にもなるんです。
だからどの一瞬も丁寧に扱ってあげましょう。
苦も楽も一瞬一瞬その彩色はかわります。どの一瞬にも自然体で、あるがままを受け入れていくと、気持ちの幅もまた変わってきます。つまり深まるわけです。
 苦も楽もある人生。大変なことも素晴らしいこともしっかり胸に刻んで下さい。ただマイナスなことを反復して何回も心を傷つけないように。うまく手放すこともまた大事なことです。

2024年9月23日 21:44
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有り難し
おきもち

九州に住んでいます。 長い間、教育職をしていましたが、発心して浄土宗の僧...
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楽しい時は、その瞬間を十分に味わい尽くす

お悩み拝読させていただきました。

諸行無常や空の概念に深い関心をお持ちのようですね。これらの教えは確かに、苦しい時には心の支えとなります。しかし、楽しい時に虚しさを感じてしまうというお悩み、よく分かります。

まず、諸行無常という考え方は、単独で理解するのではなく、他の3つの概念と合わせて捉えることが大切です。

1. 諸行無常:全ては移り変わる
2. 諸法無我:絶対的な固定した自我は存在しない
3. 一切皆苦:この世は思い通りにならないことが多い
4. 涅槃寂静:心が静かな状態が安心である

これら4つがセットになって初めて、仏教の教えの本質が理解できるのです。

全てが移り変わり、苦しみが多い世の中だからこそ、今この瞬間を大切にする必要があります。楽しい時は、その瞬間を十分に味わい尽くすことが大切なのです。

「この楽しさもいつか終わる」と考えて憂うのではなく、今を存分に楽しむことこそが、仏教の教えを実践することになるのです。

空の概念も同様です。固定的な実体がないからこそ、私たちの存在はその瞬間の構成要素の組み合わせであり、だからこそ一瞬一瞬が尊いのです。

つまり、楽しい時や嬉しい時に諸行無常や空について考える必要はありません。むしろ、その瞬間を心から楽しむことが大切です。苦しい時には「これもいつか終わる」と思い、楽しい時には「今このときを味わおう」と思う。そうすることで、人生全体として苦しみが少ない方向に向かうことができるのです。

仏教の教えは、私たちの人生をより豊かに、より幸せにするためのものです。楽しい時に虚しさを感じるのではなく、その喜びを深く味わってください。それこそが、諸行無常や空の教えを真に理解し、実践することなのです。

どうぞ、これからも仏教の学びを深めつつ、日々の生活の中で実践していってください。あなたの人生がより豊かで幸せなものになることを心から願っています。

2024年9月24日 1:16
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有り難し
おきもち

蓮城院というお寺の副住職。 主に坐禅をしたり、庭掃除をしたり。 ハスや...
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虚しさは身軽さ(慈悲)につながる

仏様の特徴は智慧と慈悲を兼ね備えられていることです。
智慧は、無常や苦や無我を悟って執着をなくす。
慈悲は、他者の幸せ、他者の悩み苦しみ軽減に向かう。
お釈迦様が悟った直後に入滅せずに生涯教えを説き続けたのも慈悲でしょう。
梵天に「教えを説いてください」と頼まれて、「はい、わかりました」と動き出せる身軽さは、智慧と慈悲を兼ね備えているからこそ。
楽しみや喜びは必ず過ぎ去るのだかもら、自分のことに執着しなくなる。
智慧で執着・こだわりや怠け心が減ると、身軽に動けるでしょう。
そして、慈悲があると、他人からの頼みも「はい、OK」と気軽に引き受けちゃうでしょう。
自分のことが空っぽに近づけば他人のために動ける身軽さにつながるでしょう。
だから、虚しくなるのは良いことです。

2024年9月24日 7:20
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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「諸行無常」問答一覧

考えない方が楽だけどこれで良いのか

いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
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過去に戻りたいと思ってしまい辛い

20代社会人です。過去に戻りたいと思ってしまい辛いです。 学生時代、私は恵まれておりかなり楽しい思いをさせていただきました。アニメが好きで同じ趣味の友人ができ、学校ではアニメの話で盛り上がり休日に一緒にアニメのイベントに行ったりと充実していました。しかし社会人になり、学生時代の友人たちは趣味が変わったり、仕事の関係で引っ越したりと次第に疎遠になりました。 もちろん、今が辛いとかつまらないわけではありません。社会人になりお金が増え海外に行ったり、車を運転できるようになったり、新しいことを学んだり、学生の頃はできない体験もできるようになりました。 しかしながら、あの頃の楽しかった学生時代を懐かしく、戻りたいなあと辛くなることが時々あります。学生時代に好きだったアニメを見たり曲を聞いたりすると当時の思い出が蘇ってきて苦しくなります。もう戻れないんだ、と思うと本当に心臓がギューっと握り潰される感覚になります。 禅に関する本を読み、そこでは「何事も移り変わる」「この世は諸行無常である」と学びました。「そうだ、人間関係も、環境も変わるのが普通だ。過去に拘ってはダメだ」と考えるようにもなりました。しかし頭ではわかっていてもやはり過去が輝かしく苦しくなってしまいます。 このような時、過去をどのように捉えて前を向けばいいでしょうか。アドバイスをいただけると幸いです。

有り難し有り難し 19
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生家がなくなる

お忙しいところ恐れ入ります。 生家がなくなる寂しさについて、乗り越え方や考え方のヒントを頂戴したくご相談させてください。 この度両親が定年退職し、まったく縁のない地方に移住することになりました。 新居も購入済みで、本人たちは第二の人生ということでワクワクしているようです。 当然ながら実家はそのうち売りに出され、私には帰る実家や地元に帰る意味がなくなってしまいます。 地元が大好きで心の拠り所としていた私にとって、生家がなくなることは思っていた以上に辛く、なんだか宙ぶらりんになるような心地で辛いです。 (今は結婚して居場所もあり幸せではありますが、自分のルーツが無くなる感覚がとてつもなく寂しいです) 親本人たちが幸せなことが一番ではありますが、毒親で振り回されていたこともあり、「また振り回されるのか…」と思ってしまう面もあります。 いずれ年老いて親は先立ち、みんな遅かれ早かれ実家はなくなるものだと思いますが、まだアラサーです。 周りは慣れ親しんだ実家に帰って安心することができるのに、私はできない。 帰る場所が物理的に消える。 大事な柱を一本失ったようで、どうにも寂しく、内心受け入れられません。 実家や地元に対する執着だと思いますが、仏教ではどのように考えて気持ちを手放すのでしょうか。 ヒントをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

諸行無常、生きている人の心のあり方

亡き母は、ある事業を運営していましたが、まだこれからという時にがんがわかり、あっという間に亡くなりました。 子供の頃から情熱的に活動していた姿を見てきたので、どんなにか残念で、悔しかったことと思います。 私はすでに他の仕事をしていたこと、また、子供個人の幸せを願ってくれましたので、事業は継がず無くなりましたが、母の情熱、精神は忘れることはできません。 それから数年経ち、その経験は、自分の新しい仕事に活かしています。 いましんどく感じているのは、その業界でいわばライバル的存在だった事業が活動をしていることです。 その関係者とは、もと協力関係にありましたが、トラブルがあり、仲違いしました。気に入らない利用者は満足に面倒をみない等、自分勝手な事が多々ありました。 不誠実さを糾弾すれば、足並みを揃えないほうが悪いと。貸したものも返してもらえないままでした。母は不毛な争いを避け、思いやりを大切に、最後までこつこつ活動を続けました。 真面目に取り組んできたほうは追いやられ、力尽きてしまい、ずるいあちらはなぜいい思いをしているんだろう。そう感じてしまいます。 今でも時々夢に出てきて、むなしく思います。 利用している方々は悪意はないのでしょうが、付き合えるということは、自分勝手な人の集まりなのかも、と感じます。 事業に関わった多くの物品、思い出の品々も、捨てられず、そのままです。利用している方々のためにお譲りして、使っていただけたらとも思いましたが、あちらにお渡しするのも考えられません。 この気持ち、思い出、思い出の品々、 受け入れ方、消化の仕方、なにか手掛かりになるお言葉をいただけますと幸いです。

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無常というものにひどく虚しさを感じます

大学受験間近の受験生です。 文には至らない点があるかもしれませんが、ご了承ください。 私の受験が近づいていくにつれて、親も私も不機嫌になったり口論することが増えていきました。その度に毎度「昔(幼少期)に戻りたい。」「祖父母がまだ元気で、仲の良かった親戚たちと定期的に集まっていたあの頃に戻りたい。」など過ぎた温かい記憶に縋ってしまいます。悲しくなって、ふと目に入った私が幼少期の時に母がせっせと作っていたアルバムを見て、大好きな母からの愛を改めて実感しました。しかし、今目の前にいる母親は、私が絡めば絡むほどやっぱり不機嫌になって向こうを向いてしまいます。それがとても悲しいです。私に勉強してほしいのは十分わかっていますし、母も仕事で疲れているのもわかっています。自分の合格が一番の親孝行というのも分かっています。 だらだらと前置き失礼しました。私の最も不安なことは、上手く言えないのですが、時間が自分の周りの環境をゆっくり壊しているような気がする事です。 今までの家族の幸せだった思い出と全く同じ体験はできず、また、これからの人生体験する楽しいことが全て「楽しかった過去」に変わっていくことにひどく虚しさを感じます。 まだ子供のくせにと思われるかもしれませんが、無常というこの世であたりまえであるものが受け入れきれません。 私はやはり考えすぎなのでしょうか? 時間が経つということが怖くて虚しいものだとマイナスな考え方をしてしまいます。 無常観についてどう考えるべきなのでしょうか?

有り難し有り難し 9
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「無常」について理解出来た気がするが…

初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。

有り難し有り難し 5
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ