諸行無常や空が虚しく感じてしまう
仏教では諸行無常=全ては移り変わる。空=全ては実体がないと考えますよね。間違っていたらすみません。
苦しい時に、この考えはすごく助けになります。今辛いのもいつか終わる。全ては心が見せてる幻だって思えば少し楽になれます。
ですが、楽しいや嬉しい時にこの諸行無常や空の考えを虚しく感じてしまいます。この楽しいこともいつか終わるのか、これも幻なのかって思って虚しく感じてしまいます。
楽しい時や嬉しい時はどのように考えれば良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
色々ありますが
諸行無常…すべては移り変わり一瞬でも同じことはない。確かに苦しい時は、この苦しみもいつかは終わり楽しい時も来る、と信じて耐えたり頑張ったりしますね。逆の場合、ああこの楽しさにも終わりがきてやがてまた苦しみもやってくると思うと虚しくなり、楽しみを楽しみと受け取れなくなる、その通りだと思います。
でも楽しい一瞬は楽しい経験として自分の中に残り、苦しい時の力にもなるんです。
だからどの一瞬も丁寧に扱ってあげましょう。
苦も楽も一瞬一瞬その彩色はかわります。どの一瞬にも自然体で、あるがままを受け入れていくと、気持ちの幅もまた変わってきます。つまり深まるわけです。
苦も楽もある人生。大変なことも素晴らしいこともしっかり胸に刻んで下さい。ただマイナスなことを反復して何回も心を傷つけないように。うまく手放すこともまた大事なことです。
楽しい時は、その瞬間を十分に味わい尽くす
お悩み拝読させていただきました。
諸行無常や空の概念に深い関心をお持ちのようですね。これらの教えは確かに、苦しい時には心の支えとなります。しかし、楽しい時に虚しさを感じてしまうというお悩み、よく分かります。
まず、諸行無常という考え方は、単独で理解するのではなく、他の3つの概念と合わせて捉えることが大切です。
1. 諸行無常:全ては移り変わる
2. 諸法無我:絶対的な固定した自我は存在しない
3. 一切皆苦:この世は思い通りにならないことが多い
4. 涅槃寂静:心が静かな状態が安心である
これら4つがセットになって初めて、仏教の教えの本質が理解できるのです。
全てが移り変わり、苦しみが多い世の中だからこそ、今この瞬間を大切にする必要があります。楽しい時は、その瞬間を十分に味わい尽くすことが大切なのです。
「この楽しさもいつか終わる」と考えて憂うのではなく、今を存分に楽しむことこそが、仏教の教えを実践することになるのです。
空の概念も同様です。固定的な実体がないからこそ、私たちの存在はその瞬間の構成要素の組み合わせであり、だからこそ一瞬一瞬が尊いのです。
つまり、楽しい時や嬉しい時に諸行無常や空について考える必要はありません。むしろ、その瞬間を心から楽しむことが大切です。苦しい時には「これもいつか終わる」と思い、楽しい時には「今このときを味わおう」と思う。そうすることで、人生全体として苦しみが少ない方向に向かうことができるのです。
仏教の教えは、私たちの人生をより豊かに、より幸せにするためのものです。楽しい時に虚しさを感じるのではなく、その喜びを深く味わってください。それこそが、諸行無常や空の教えを真に理解し、実践することなのです。
どうぞ、これからも仏教の学びを深めつつ、日々の生活の中で実践していってください。あなたの人生がより豊かで幸せなものになることを心から願っています。
僧侶や仏教者も大半が無常や空を概念・理屈で語るから救いがない
楽しい時は楽しいに身を任せることで楽しいが継続します。
楽しんでいることをやめてドライ目線で評論・批評目線でものを観ずると楽しめませんよね。歌を歌ったり、楽器を演奏している時に、点数や採点、評価を気にし始めたらそれは音楽を楽しんでいる状態とは言えませんよね。スカしちょるのです。
ちなみに、ヒソヒソ…
仏教でいうところの諸行無常の本当の意味は意味ではなく「事実が」なのよね。事実で体得するべきこと。頭の解釈で世界は「変化するゥ」とか「物事は移り変わるゥ」とかいう話じゃァないからね。マジでガチで。
理屈や解釈で「この世は移り変わるゥ」とかいう理解であれば別に仏教じゃァなくてもいいじゃんよ(*'▽')ね?なのです。学校の理科でもならうでしょう。ものが変化するなんてことは子供でも分かること。お釈迦様、そんなことを言うたと思いますかいな?本当は違うのですよ。これ、ここは坊さんや仏教者での90%以上の人が誤解してるトラップね。
あと、教科書とかに書いてあることも、あれ、諸行無常ということを学者さんが解釈した説明だから無常❝観❞なのよ。違うってこと。日本人は教科書でみんな無常をカン違いさせられて洗脳されちょるわけじゃ。そんなことあるわけないと?だったら、その無常の理解で誰が救われるのか。せいぜい、厭世主義、ペスミシティックな感傷的な無常観ぢゃろが!💀お釈迦様そんな悲観的なのか!👹
よく無常というと「実態・実体がない」という理解をする人も多い。
そういうことを頭で理解や概念で知ることが無常だとか空だとか思う人って多いけど、あれも違う。あれは思想。空や無常をドライな虚無的な概念にしている自覚がねー連中が空や無常をベツモンにしちょるおよ。そもそもその理解の仕方が誤解=思想だから頭で考えたこと。だから、そういう理解をしていく人ってスゲードライな考えになる人なんだよね。
本当の無常とか空ってそういうことじゃァねーんだよね。(笑)こういうことを教えてくれる坊さんは皆無なので、興味があったら真剣に求めることね。
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虚しさは身軽さ(慈悲)につながる
仏様の特徴は智慧と慈悲を兼ね備えられていることです。
智慧は、無常や苦や無我を悟って執着をなくす。
慈悲は、他者の幸せ、他者の悩み苦しみ軽減に向かう。
お釈迦様が悟った直後に入滅せずに生涯教えを説き続けたのも慈悲でしょう。
梵天に「教えを説いてください」と頼まれて、「はい、わかりました」と動き出せる身軽さは、智慧と慈悲を兼ね備えているからこそ。
楽しみや喜びは必ず過ぎ去るのだかもら、自分のことに執着しなくなる。
智慧で執着・こだわりや怠け心が減ると、身軽に動けるでしょう。
そして、慈悲があると、他人からの頼みも「はい、OK」と気軽に引き受けちゃうでしょう。
自分のことが空っぽに近づけば他人のために動ける身軽さにつながるでしょう。
だから、虚しくなるのは良いことです。
質問者からのお礼
丹下覚元様
確かに、仏教を理論で考えようとするとかえって考えてしまうことがありました。楽しい時は楽しいと思うこと、すごく大事ですね、楽しい時は難しいことは考えずに目の前のことを楽しみます。ありがとうございました。
願誉浄史様
諸行無常によって虚しさを感じるのでなく、身軽になれるとのお考えにハッとしました。昔の楽しかったことを思い出して今はつまらないなと思ってしまうことがあったのですが、身軽になれるとのお話を聞いて自分が過去の楽しいことにこだわっていたことに気づきました。ありがとうございました。
コウブン様
諸行無常だからこそ、楽しい瞬間も美しいとのお話になるほど、と思いました。花火や桜は無くなってしまうけれど美しいですし、無くなって美しい思い出として思い返すことができますね。今は卒業した学校の思い出や疎遠になってしまった友人との思い出もその瞬間瞬間が美しかったのだと気づきました。終わってしまった思い出も虚しいのではなく美しいと前向きに捉えることができました。ありがとうございました。
薫誉至誓様
思い出は残る、とのお言葉がとても心に響きました。卒業してしまった高校、かつては仲が良かったのにだんだんと合わなくなったかつての友人など終わってしまった楽しかったことがしっかり今でも残り続けていることを自覚できました。終わってしまったとしてもそれは残って自分を作るのですね。苦しい時も楽しい思い出を支えにして生きていきます。ありがとうございました。