仏教に関する強迫性障害の侵入思考について回答受付中
僕は仏教に関する強迫性障害に悩む人です。主に浄土宗の修行をして参りましたが、最近は真言宗にも関わるようになり、仏教全般に興味を持っています。
毎日、頭の中に侵入思考が頻繁に浮かび、恐ろしい内容の言葉が響きます。特に興奮したり、怒ったり、嬉しいと感じたりする時に多く現れます。それらの思考は、仏様や菩薩様を叱ったり、傷つけたり、汚したりする内容として頻繁に現れることが多く、「三宝への帰依を捨てた」「結縁灌頂で仏様と結んだ縁を否定し捨てた」「自分の仏性を否定した」「戒を破り地獄に落ちる」など、僕の信仰や修行を無効にするようなひどい内容も繰り返し頭に浮かびます。 時々、侵入思考えが浮かぶと、それに対処するのに疲れたために怒りを感じます。するとさらにストレスが増やし、怒りのせいで仏様を怒らせるのではないかと怖くなります。
これらの思考は非常に頻繁に訪れ、頭の中で強烈に響くため、大きな苦痛を感じており、生活の様々な面に支障を来しています。強迫性障害の症状として、侵入思考が浮かぶ都度、祈りを捧げたり、念仏や真言を唱えたり、思考が消えるまで行動を繰り返したり、自分を叩くといった強迫行為で対処せざるを得ません。薬を飲んでも今まで効果が十分ではありません。
今回お伺いしたいのは: 仏教の教えの観点から、これらの思考に何か意味や霊的な影響があるのかということです。例えば、「三宝への帰依を捨てた」や「結縁灌頂で結んだ縁を否定した」という侵入思考は現実となるのでしょうか?また、仏様に対する不敬な侵入思考は、多くの悪業を積むことになるのでしょうか?どうすればいいか?
アドバイス頂けると幸いです。ありがとうございます!
強迫性障害、地獄を恐れる、仏教の帰依を失う事を恐れる、破戒を恐れる
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
苦しみに対処し続けるのが生命
身・口・意の三業において悪い言動をしてしまうと、罪業(悪い癖)が積み重なって悟り(成仏)が遅れる要素になるでしょう。
反対に、善い言動は功徳(善い癖)となって悟りが早まる要素になるでしょう。
生きることはその繰り返しなのです。
また、一切皆苦であり、私達生命は、瞬間ごとに起きる苦しみ・不満に対処し続ける存在なのです。
ですから、あなたの苦しみも、念仏や真言で対処し続けるしかないのです。
浄土宗では、念仏(願往生心)をこの世から極楽に向かう白い道に喩えます。
その白道の両側には貪りの河と怒りの河が波打っております。
私達の心は、欲や怒りの煩悩の激流に簡単に流されてしまうか弱い心です。
しかし、安心してください。
何度激流にさらわれても、南無阿弥陀仏と念仏する度に、あなたは白道の上に瞬間移動できます。
その道は、阿弥陀仏が「こっちへおいで」と、お釈迦様が「そのまま進みなさい」と応援してくださる道。
いつかあなたも極楽浄土に往生を遂げ、不退転という境地になって、罪業が功徳を上回ることがない(修行が後退しない)境地になれます。
今はまだ不退転の境地ではないかもしれませんが、とにかく苦しみ苦しみ苦しみに対処対処対処。
激流念仏激流念仏激流念仏。
そうやって、死ぬまで生きれば合格人生(往生極楽)です。
あなたを襲う妄想雑念は、パンクロックの歌詞のような破天荒さや怒り、そのようなパンク的な刺激への欲かもしれません。
それも苦しみの一種ですが、特別視する必要はないと思いましょう。