hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

主体性に乏しく、外界のことに興味がない。

回答数回答 2
有り難し有り難し 5

人からどう思われているかとか、そういう受け身の場合のみ外界で起きていることについて考えるのですが、

こちらから、自発的に何かに興味を持つといった経験が非常に乏しいです。
おかげでこれまで十数年学生をやってきて、一度も何かについて学ぶのを楽しいと思ったことがありません。

おそらく、どうでもいいことですぐに激昂する周りの大人達から心身を守るためにこうなったんであろうことはわかっているのですが、

この凍りついてしまった主体性や知的好奇心を、どうやって溶かしていったらいいのかが、わからないのです。

なにかヒントを頂ければ、幸いです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたがそれを選択している

あなたの質問のタイトルにもありますように、あなたが「自分はこうだ」と認めて、思い込んでいるだけです。
それを禅では「認める」「立てる」「見をもつ」などと言います。
人間は、思ったことを選択している。
人間は、思ったことになっていく。
人間は、思い込んだ自分に向かって進んでいく。
…、ということを知ってください。
あなたは「僕はこうだ」「私は昔からずっとこうしてきたから」と、自己分析をなさっているようにも見受けられますが、そこに落とし穴があるのです。
「私はこうだ」と自分の脳みそに命令をしているのですよ。
それは言い換えればあなたがそういう生き方を❝選択❞していることに他ならないのです。
「ああ、そっか、和尚のいう通り、オレは今までそういう生き方をして自分を自分で縛っていたのか」
「自分でそう思い込んでいることイコール自分をそうさせていただけだったのか」ということに気づけば、あなたは即、あなたからフリーです。
あなたは今自分の向上に関心を持っている。
外とのかかわりを断ってきたのは、その関わりの中で危険性を感じたからかもしれません。
でもその関わりは、関わり方が上手になれば傷つくことはなくなるのです。
充電期間、修養期間は終わりました。
あなたが興味がわく事は、むりに興味がある事を探そうとしなくても、これから、明日からの自分の本心が自然に教えてくれます。
自分感受性、自分のセンサー、自分自身を高める事を始めましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち


丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...
このお坊さんを応援する

「知る」「思い出す」「試す」「待つ」「まかせる」

TMさん

たぶんあなたは、
自分のこと、周りの大人のこと
色々なことに気付いているのではないか
そんな感じがいたします。

興味というのは
湧いてくる

知りたい
やってみたい
夢中になってしまう
ついついしたくなる

人間が生きる力の源として
本来備わっているのだと思いますが

簡単にその本質が奪われてしまいます。

例えば
誰かにやらされる
(親や教師)

何かのためにやる
(成績を上げるため、誰かに勝つため)

となると
学びが
命令となったり、競争となったり、手段となったりと

楽しさを感じ取れなくなってしまうのかもしれません。

そういう点では
あなたの学びの楽しさは
奪われているのだと思います。

しかし、あなたはそのことに気付いておられますね。

そして

「この凍りついてしまった主体性や知的好奇心を、どうやって溶かしていったらいいのかが、わからないのです。
なにかヒントを頂ければ、幸いです。」
ということですが

何かヒントがあるとしたら

凍らせた原因を「知る」
何をしている時に楽しいか「思い出す」
とりあえず「試す」
湧いてくるのを「待つ」
後は、心に「まかせる」です

参考になるか分かりませんが、思いついたままに。

{{count}}
有り難し
おきもち


質問者からのお礼

お二方、回答ありがとうございました。

思い込んでいるも何も、
現実に起きていることなんですが...
私には到底理解できそうもありません。

「自分がわからない」問答一覧

「幸せなのに死にたい」の原因を知りたい

長文です。大丈夫な方はお目通し下さると嬉しいです。 自分は今以下の条件通りの「幸せなのに死にたい」状態です。 ・「一般的に恵まれている」でなく、「自身が実際幸せを感じられている」状態の幸せである。楽しい事も多い。 ・家族、友人、職場、恋人に恵まれ、適切で信頼出来る関係を相互で築けており、少なくとも自分は満足している。 ・職や他者への不満は特に無く、基本的に感謝して過ごしている。 ・セクシュアリティや趣味趣向、興味分野でマイノリティだが、周りは皆受け入れてくれており、将来への視野もそこそこ拓けている。 ・自身に不満は無く、性格の悪い所と同じくらい良い所が好き。 他者評価はあまり気にならず、過去のトラウマは火葬くらい。自分には幸福が許されないといった考えも無い。 ・金銭面は過去現在共に苦労していない。 ・死ぬのが怖いので死にたくない。また、「幸せなまま死にたい」という気持ちや、有終の美的な考えは一切持っていない。 ・不幸にはなりたくないが、かといって幸せになりたくて生きている訳ではない。 不幸でも幸せでもない中間または無でも、充分足る。 この環境条件下で何故死にたいとなるのか。その理由の検討がつかず、己と異なる知見を持った方々なら一体どう見るのだろうと相談させて頂く事にしました。 「幸せなのに死にたい」と調べると、多くの方の談を拝読する事が出来ます。 しかし、「周りの人(一般)から見て恵まれている」けど不足を覚えており消えたい……といった内容である場合が多く見受けられ、どうにも自分に近いニュアンスの例を見つけられませんでした。 「今の恵まれた環境を失うのが怖い」という可能性も考えたのですが、物事の変遷は特別でもなく、 極論幸せが抑自分にとって良い事なのか悪い事なのか判断を下せない為、理由としてしっくり来ませんでした。 最近変わった事といえば、 幼少期からの墓執着が遂に睡眠障害を引き起こしたので、初有給を使って添い寝用に墓石1つ目を購入した事くらいです。 墓はかなりポジティブなものとして認識していて、皆さんが一生物のぬいぐるみを買うのと恐らく同じ感触ではないかと思っています。僕より重いけど可愛い竿石が届く予定です。 こういう状態で「死にたい」と考えるに至る理由に検討がつく方、いらっしゃいましたら教えて頂きたいです。

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

自分の二面性に苦しんでいます

はじめまして。 私はいつも明るく笑顔で過ごし、年上には可愛がられ年下には頼られ、友人からも頼りにされるように努めております。 体が強くないこともあってよく周りの方々には助けていただいており、その結果様々なご縁に巡り会えました。 しかし、私はいつも人のご厚意を利用して自分の望む結果が手に入るようにしているだけだと物心ついた時から気づいてはおりました。 自分がなぜ人に優しくするのか、それは畢竟自分の為に他なりません。 自分の中には2つの自分が居るように思います。狡い自分とその状態を俯瞰して心を痛める自分。 恩義を売っておけばいずれこういう時に便利だろう、相手が求めているものは何か探って効率的に人望を集めよう。 体が強くないのは事実ですが、それさえも周囲の手助けを引き出せるよう仕込める自分が恐ろしいです。 冷静な時(平常心)は狡い方がいたって普通に活動しています。むしろ心がかき乱されたりする時にこそ、俯瞰して自分の実情を嘆いています。両方とも私であることに変わりはありませんが、余りに乖離しています。 そして生来、私は周りの人の助言が心に入って来ませんでした。私が相談相手になったときに相手にかける言葉の想定解の羅列に見えてしまうのです。 今はおそらく、俯瞰する力が強いのかと思います。神仏に額づいて許しを請いたい気持ち、罪悪感でいっぱいです。 相手が喜んでいる私を演じることが罪滅ぼしならば、後々利用しようとする心があってもそのまま演じていた方が良いのでしょうか...。 何か私を1つに纏める、軸のような言葉をいただけたらと思います。 そしてこんな私ではありますが、少しでも心安らかに暮らしていける方法などはありますでしょうか。 長々と失礼いたしました。何卒よろしくお願いします。

有り難し有り難し 16
回答数回答 2

過去の自分が怖いです

過去の嫌な記憶がフラッシュバックしてきて辛いときに、このサイトを見つけて何かのヒントになればと思い、相談させて頂きました。 私には、半年程前に強迫症の症状がありました。主に加害恐怖です。誰かを傷つけてしまった、SNSで誹謗中傷をしてしまった、など誰かに嫌な思いをさせてしまったと感じることがありました。当然そんな事はしてませんし、したいとも思いません。ですが、妄想が鮮明で、本当に自分がしたかのように感じたのです。もしかしたら、無意識のうちに罪を犯しているのかもしれないと考えるときもありました。 そんなことを考えているときはとても辛くてでも、誰かに相談できることではなくて、不安が去るのをじっと待っていました。数日後には不安は消えて、日常を送り、また別の不安で辛くなるという繰り返しの日々を送っていました。 当時、上京をして1人暮らしをしていたのですが、情緒が不安定になったり、うつ気味になったり、専門学校で辛いことがあったりと、色々重なって学校を辞めて実家に帰ることにしました。それからは体調も良くなり、次第に元気がでて回復してきて、新たに、勉強を始めて、いずれは大学か別の学校に行きたいと考えています。 ですが、冒頭にも書いたのですが、当時の辛いことがたまにフラッシュバックしてきす。一度は自分の中で落ち着いたことなので、そのまま流せることもあるのですが、何回かはすごく辛く感じることがあります。本当に罪を犯していると感じるときもあります。分からないので、実際に起きてから考えようとしているですが、私は、間違っていますでしょうか? 長くなってしまい、すみません。返事を頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

「超客観的」な感覚になってしまいます

もし、何か関連するものをご存じであれば教えてください。 まず、現在の私の状況です。 ここ何年かずっと続く感覚があります。それは自分のあらゆる「主体」という感覚が薄れているような感覚です。 自分のあらゆる行動、容姿がさも他人であるかのような感覚になります。 今こうして文章を打っているときも、脳波で動くロボットアームを動かしているみたいです。 飲食は車にガソリンを入れているような感覚だし(味覚はちゃんとあります) 鏡に映る自分を見れば、一瞬「誰だ?」みたいな気分になります。 郵便物の宛名で書かれた自分の名前はたまに誤配送を疑うくらい知らない人の名前に感じます。 などなど、そのように基本的にあらゆる自分の状態を超客観的(?)な視点で見てしまいます。 肉体だけ精神と切り離されたような、逆に言えば私の精神だけが世界から切り離されたようななんとも言えない感覚です。 一部の感覚は他人にも当てはまります。 食事や睡眠をとる他人を見ていると、好きでも嫌いでも気持ち悪いとかそんなものは一切なく「あ、食べてる(寝てる)」と不思議な感覚で、フラットに眺めてしまいます。 思考する自分に対しては「主体」としての意識はあるので、ただ肉体と精神が遠ざかっているようです。 距離としては双方それほど遠ざかっていないと思うので、2重人格とかそういったものにはならないと思います。 そういった状況を受けて、さらに最近変化してきたことがあります。 こういった感覚や状態は、俯瞰しているせいか精神の「凪」みたいな状態を招くことが多くなりました。 怒れば心拍数が上がり頭に血が上る感覚がありますがそれも俯瞰 恥ずかしくなれば顔が赤くなりますがそれも俯瞰 昔よりずっと怒りなどの感情を抑える事ができるようになりました(肉体的反応は制御できませんが) 普段はしばしば瞑想をするくらいですが、特にちゃんとトレーニングを積んだわけではありません。 肉体と精神が離れる。そんな感覚をずっと抱えていただけです。 とにかく自分の中でなぜ、どのようにこうなったのかうまく説明がつかない状況なので、もし「それこういったものでは?」となにか引っかかるもの、ご存じのものがあれば教えていただけないでしょうか? 長くなってしまい恐縮ですが、何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 20
回答数回答 3

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

仏教駆け込み寺 自殺防止・DV・虐待・鬱 相談窓口のご案内
hasunoha YouTubeリスト 回答層YouTuberのまとめ

関連コンテンツ

娑婆のニュース
仏教を知る ブッダの言葉
そらノート

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

縁切り供養寺大法寺