主体性に乏しく、外界のことに興味がない。
人からどう思われているかとか、そういう受け身の場合のみ外界で起きていることについて考えるのですが、
こちらから、自発的に何かに興味を持つといった経験が非常に乏しいです。
おかげでこれまで十数年学生をやってきて、一度も何かについて学ぶのを楽しいと思ったことがありません。
おそらく、どうでもいいことですぐに激昂する周りの大人達から心身を守るためにこうなったんであろうことはわかっているのですが、
この凍りついてしまった主体性や知的好奇心を、どうやって溶かしていったらいいのかが、わからないのです。
なにかヒントを頂ければ、幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたがそれを選択している
あなたの質問のタイトルにもありますように、あなたが「自分はこうだ」と認めて、思い込んでいるだけです。
それを禅では「認める」「立てる」「見をもつ」などと言います。
人間は、思ったことを選択している。
人間は、思ったことになっていく。
人間は、思い込んだ自分に向かって進んでいく。
…、ということを知ってください。
あなたは「僕はこうだ」「私は昔からずっとこうしてきたから」と、自己分析をなさっているようにも見受けられますが、そこに落とし穴があるのです。
「私はこうだ」と自分の脳みそに命令をしているのですよ。
それは言い換えればあなたがそういう生き方を❝選択❞していることに他ならないのです。
「ああ、そっか、和尚のいう通り、オレは今までそういう生き方をして自分を自分で縛っていたのか」
「自分でそう思い込んでいることイコール自分をそうさせていただけだったのか」ということに気づけば、あなたは即、あなたからフリーです。
あなたは今自分の向上に関心を持っている。
外とのかかわりを断ってきたのは、その関わりの中で危険性を感じたからかもしれません。
でもその関わりは、関わり方が上手になれば傷つくことはなくなるのです。
充電期間、修養期間は終わりました。
あなたが興味がわく事は、むりに興味がある事を探そうとしなくても、これから、明日からの自分の本心が自然に教えてくれます。
自分感受性、自分のセンサー、自分自身を高める事を始めましょう。
「知る」「思い出す」「試す」「待つ」「まかせる」
TMさん
たぶんあなたは、
自分のこと、周りの大人のこと
色々なことに気付いているのではないか
そんな感じがいたします。
興味というのは
湧いてくる
知りたい
やってみたい
夢中になってしまう
ついついしたくなる
人間が生きる力の源として
本来備わっているのだと思いますが
簡単にその本質が奪われてしまいます。
例えば
誰かにやらされる
(親や教師)
何かのためにやる
(成績を上げるため、誰かに勝つため)
となると
学びが
命令となったり、競争となったり、手段となったりと
楽しさを感じ取れなくなってしまうのかもしれません。
そういう点では
あなたの学びの楽しさは
奪われているのだと思います。
しかし、あなたはそのことに気付いておられますね。
そして
「この凍りついてしまった主体性や知的好奇心を、どうやって溶かしていったらいいのかが、わからないのです。
なにかヒントを頂ければ、幸いです。」
ということですが
何かヒントがあるとしたら
凍らせた原因を「知る」
何をしている時に楽しいか「思い出す」
とりあえず「試す」
湧いてくるのを「待つ」
後は、心に「まかせる」です
参考になるか分かりませんが、思いついたままに。
質問者からのお礼
お二方、回答ありがとうございました。
思い込んでいるも何も、
現実に起きていることなんですが...
私には到底理解できそうもありません。