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生まれた以上、必ず迎える死。
夫や父を亡くし、寂しさが身にしみる50代。
寂しさが隣にあるから本物の絆気付かされます。
ただ、寂しさのベールの中にいるような今、ちゃんと呼吸していたときのような景色がかすみます。
寂しさのベールを取り払って、またちゃんと生きていると感じ日々を送りたいと日々葛藤しています。
お坊様方も寂しさと葛藤するこてはあったでしょうか?
もしそんな日々はどう自分を鼓舞したでしょうか?
何かお話を聞ければ自分で答えをだせるかと思い、ご相談させていただきました。
宜しくお願いします。
夫を亡くしてから、自分と向き合う時間が増えました。 これからどう自分らしい時間を過ごすか模索しながら生きています。
人に合わせたり譲るクセがあり、そのため仕事ではなかなかリードするがわになれず、生きづらいです。
お坊さんからの回答 1件
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無常観
こんばんは。親しかった方を送ると、やはり寂しい想いになりますね。
私も父を送って3年、母の衰えなど目にするたびに、いつか来る別れを思ったりします。
以前のご質問で、「数年経ったら無になるのでは」と書かれていましたね。そうなることもあるかも知れませんが、きっと大切なのは「あなたとの縁において、無になるのか…どのように生き続けるのか」ということだと思います。
私にとって父は、いまだに「どう生きるか」を指ししまし続けている存在です。彼の生き様を思い出すことで、自らのこれからを決めたりしていますよ。
父は長寿でしたが、「それでも別れる時は来る」を教えてくれた存在でもあります。だから私は、父を送ってから、「私が伝えるべきと考えたことは、伝えなければ」という使命のようなものを感じるようになりました。私もまた、死にゆく存在だからです。
「本物の絆に気付かされ」というのもよく分かります。ただ私にとっては「自身も死にゆく」ということの方が、大きく私を動かしているように思います。
そして。
わたしは浄土宗の僧侶ですので、少しそこに寄せてお伝えしますね。私には「亡くなった後は、みな極楽へ行く。皆いくということは、いずれ再開するということだ」という確信があります。彼はのぞみ一号で行き、私は10号で行くようなものだと(これは、ひろさちや先生の言い方)。
向こうで再会したら…「お陰様で、私も大切なことを見失わずに生きられました」とお礼を言うつもりです。
人の一生というスケールは勿論よく分かるのですが、この、仏教の考える時間についてのスケールを、どうか待ってほしいと、私は思っています。


