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記憶

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最近、よく思うのですが自分の記憶力です。
自分は他の人より記憶力がよく、一回会話した内容や風景を写真に撮ったように覚えてます。

いい反面、それは悪い記憶もずっと消えずに残る事です。たまには、孤独感も、

友達との会話、好きな人との会話、いつも覚えてるのは自分だけで、たまにむなしく感じてしまいます。

恋愛でも、今目の前の人よりも過去に出会った人が記憶に残り美化されなかなか前に進めません。
本質でほ忘れてないのに次に行こうとするとうまくいかない事が多いです。

やはり無意識に比べてる自分もいます。

怒られるかもしれませんが、すぐ忘れられる人が羨ましく思う事もあります。忘れる事も大切だと思うので。

自分は、それが出来ません。寝る時も過去の映像がビデオに撮った様に流れます。嫌な事、辛かった事も,生きていればどんどん増えると思います。

多分、自分は他の人より精神的に強くならないとダメだと思います。

でも、そこから逃げるつもりはありません、今よりもっと精神的に強くなりたい、他の人からの攻撃にも強くなりたい、今より精神力を強くするには自分に何をすればいいですか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

記憶それ自体が無色・無我であることを悟る

坐禅会にお越し頂いて話を聴きながら自身を見つめ自分の記憶というものが、どういうものか、どういう性質であるかを学べば一発です。
記憶はそれを思い出していない時は、無きに等しいもの。今だって忘れている記憶は機能していないのだからあるようでもないもの。現じていないもの。
記憶というと多くの人間はどこかにしまっている、眠っているかのように思ってしまいますが、一念という字が示すが如く、今の一念。たまたま思い起こされた一念、思いでしかありません。念とは今の心と書くでしょう。
それがフラッシュバック形式で現われたとしても、その【直後のあなたがどう対応しているか】が、ただ問題なだけなのです。
音楽だって、一度脳内再生されれば人によってはエンドレスです。カットすることだってできます。
ところがずっとその記憶が続いているということは、それは脳内環境が再生、リプレイするのに快適な環境なのでしょう。
禅の修行とは、そっちを重宝しません。
思考モードで、記憶モード、追憶モード、追認モードはなく、
事実モードを重要視します。
事実モードとは、今の目前、思いから離れた世界。そこに住すれば問題は解決です。
ところが事実モードは言葉でこうして説明しても多くの人は思考モードで理解するから、会得されないのです。
だから、オペと同じように禅では面授と言って、直接生身の人間からそのコツを得るのです。
わかるかわからないかは、こっちも専門ですから問答すればわかるのです。
思いも記憶も出た当初は無我なる性質としての起こりなのです。
それを掴んで自分化させている自分がいることに気づいてください。
テレビの映像だって文句を言うクレーマーもいれば、スルーして流している人間もいます。脳内映像、記憶は万人の共通の同じ脳内映像再生です。だから上記の【】の所を強調するのです。もうわかりましたね?あなたがそれを拾い上げていることに気づいてください。
ポイント
肉眼が悪いものをみても、悪いものと思って観ない。
ニコニコ動画はコメント表示ONしなければクリアーな画面。あなたの脳内再生に対してあなたのコメントを差し挟まない。継続視聴する必要もない。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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