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本当に怖い思いをした話を聞かせてください

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お坊さんは何事にも冷静で怖いものがない感じがしますが、これまで本当に怖い思いをした話を聞かせてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは修行中の事でした…

真言宗の修行には加行という100日間の厳しい修行があります。

日常にあるテレビやラジオ、新聞や電話や携帯など全て没収され、衣と身の回りの下着やタオル石けんなどと教本と修行に使う御次第のみが持つ事を許されるわけなんですが…

もちろん修行道場の寮に入り24時間生活は自由がありません。
寮監督の先生はそれはそれは厳しく…あんなことやこんなことは平気で…(略)
もちろん、廊下には塵1つ落ちている事は許されません。
何か不備があったらどんな罰を与えられるか…考えるだけで身の毛がよだちます。

修行僧は夜のほんの少しの時間で身のまわりの洗濯などをします。
そして…私は夜に自分の洗濯物を選択機から自分の部屋へ廊下を通ってはこびました。

その後、静まり返る薄暗い廊下に誰かの足音がします。

そして宿舎をつらぬくような大きな叫び声が響きました。

「だれだーーーー!!!廊下にパンツを落としているヤツはぁ!!!ああぁあぁ〜〜?」

私のパンツでした。orz

追記:お坊さんなんで幽霊やオバケはあまり怖くないです^^;

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個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

すべてが灰色に色あせた瞬間

学生時代ひろさちやさんの仏教マンガで宮越義勝さんという方の個性的な絵にドハマりしました。
本の中で遊女がお釈迦様の教えを聞いた途端、身につけていた宝石や装飾品が色あせたというシーンがありました。
「プププ、こんなことあるわけがない。」
ありました。
ある時、都内の坐禅会で凄い方がお話をされているというので本山をコッソリ抜け出して参禅会に参加しました。
老師の説法を伺っている中で、まさに身につけているもの、大事に持っていたもののすべてが色あせました。
それらよりも、素晴らしい価値を示してくださったという事でしょう。
獅子の咆哮<獅子吼>には全ての動物が恐れおののきひれ伏すように、仏陀の説法、本当の覚者により正法に触れるとすべての世俗的な価値あるものが価値を失うものです。
頼りにしてきたもの、よりどころにしてきたものが、価値を失い、真実の仏法がそこに提供されていたのです。
世の中には、上手な説法や優しい説法、巧みな洗練された説法というものがあります。
私にとってそんなものは不必要になりました。
「悟り」「無上菩提」「涅槃」という人生のあらゆる苦しみを滅するすばらしいお話を提供して下さるものよりほかに宝などありましょうか。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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