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変な人に絡まれる。

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最近毎日の様に変な人に絡まれます。。

道を歩いていると突然見知らぬ人から怒鳴られる。
犬の散歩途中に同じく犬の散歩をしているお爺さんにセクハラされる。
近所の外国人のお婆さんから私とは全く無関係の事で言い掛かりを付けられる等です。

このお婆さんに至っては日本語をよく理解できて居ない様で、いくらこちらが無関係だと説明しても理解して貰えず、近所で顔を合わせる度に騒がれたりして大変怖い思いをしています。

絡んでくる相手はいずれも全くの他人で私が何かしたという事はありません。
なので余計に気持ちが悪いのです。

今日も母と近所を歩いていたところ、見知らぬ女性に絡まれました。

最初に絡まれてから一ヶ月経ちますがもう精神的に限界で、外に出るのが怖くてたまりません。

どうにかこの連鎖を断ち切る方法は無いでしょうか?
御札等を頂いたりした方がいいんでしょうか?

ご回答宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

全ては授かりである。

こんにちは。hasunoha内の変なお坊さん、丹下です。
今後の為にも出来事をそのまま(あなたの価値判断を付け加えずに)受け止める訓練を致しましょう。
ニュースなどをみると、良い悪いの判断が生じます。
その価値判断というのは、瞬時のうちに判断されてしまうので(気づきにくことですが)、自らがその事に対して善悪、良い悪い、好き嫌いの判断を下しているのです。

私も先日、変な??過激な?老婆に絡まれ因縁をつけられましたが、その時私は相手の気持ちになっていました。(あ、この人、何か嫌なことがあったな)
そこに自分の好き嫌い、良し悪しを起こさずに接することで、問題なく過ごせました。
15年前ならキレていたと思います。(笑)
もちろん世の中には犯罪者に分類される変な人も存在します。
そういう変な人たちには対してはしっかりと警戒する必要があります。
そんな人が多数存在する中でも、今後もあなたの人生は続いていきます。
その相手をその相手として、その事をその事として、そのまま受け止める力をつける事が仏教教えの核心的な部分でもあります。
そもそも、どんな不運な事が連続しているようでも、それは続いている訳ではありません。
一回一回、そこで必ずジ・エンドしてます。
この回答があなたにとって、良い事か悪いことかもあなたが決める事。
ツマラン回答と思われ宇かもしれませんが、どんな出来事の中にもウマ味を見出してほしいのです。
火星からみれば小さなことでもあなたの心の中では大問題。
アナタの心中では大問題でも、火星からみれば小さなこと。
というより、誰から見ても、その出来事は、その出来事なのです。
そこに良い悪いの私的な見解を添えてしまう習慣がついているから、ヨイ・ワルイが心の中でだけ生まれるのです。そのヨイワルイを超越して、ただの出来事として存在しているのが、どんな物事も第一時点としての在りようなのです。
さらにはそのただの出来事も、変な人だった、不幸だったとバッドな扱いで終わらせずに、学びや向上、精神鍛錬だと思って、ウマ味を引き出す、見出すことです。
これは一生の力になりますから、そういう視点を持つことです。
目の前で展開されている出来事を、そのまま受け止めること、私的見解を加えないことが結果的に自分を大きく変える、成長させることになりましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

何かの原因があり何かの結果がある

メロン熊さんへ。
心中ただならぬ状態でありましょう。お察しもうしあげます。
様々な事例を垣間見るにあなたが原因であなたに不幸がおとずれているようには見えません。
しかしながら、あなたに不幸がやってきている。つまり何かの力が働いている。おおよそ物事は原因があって結果があるのです。
そこで、今いちどあなたの言動について再確認をする必要があると思います。とは言っても不幸な場面がやってきた時ではなにが原因かわからないでしょう。お母さんなどに日頃の自分自身の行動を観察してもらう。また、あなたの今日の1日の言動について日記をつけてみる。
それで難癖をつけられる法則が理解できればそれをしないようにつとめてみる。一つづつの改善がよき方向に一つづつ繋がっていくのではないかと思います。
お札のご利益を頂くのはあなたのこの件に対する改善努力の上で少し足される程度で思うのがベストかも。
あなたの行い次第で神仏からのご利益度合いも変わってくるかと思います。
私もよく絡まれる一人です。お互い頑張ってこの問題を乗りきって行きましょう(^_^)。

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おきもち

個別相談可能
みなさん、こんにちわ。童楽寺の副住職の小林裕淳(ゆうじゅん)といいます。悩み事が生まれては消え、そしてまた生まれては消えていきます。そんな私たちの日常…。 その中にいる私自身も生きることに悩んでいる1人です。悩みからの解放のためあなたと一緒になって楽しい日々作りをしたいと思います。宜しくお願いします。
この世を生きることは悩みの中に生きることになります。そのお悩みが見方を変えることで楽になればと願います。 辛いに横一字を足せば幸せになります。あなたのあともう一歩が幸せになりますよう願うばかりです。 歩んで行きましょう。 お互い無理せずに。

質問者からのお礼

お忙しいところ御回答頂きまして有難う御座います。お思い返してみたところ、絡まれた日の夜は家族や友人に「今日こんな事があったのキィーッ!」と散々ぶちまけていました。
そんな行いが次から次へと変な人を吸い寄せていたのかも知れません。
これからはたとえ道端で絡まれたとしても無事に家まで帰って来れた事に感謝して眠りに就こうと思います。

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