エレベーターの閉ボタンを押してしまう
先日ラジオで流れてたのですが、日本人はエレベーターで閉ボタンをよく押す。閉まるまでの数秒も待たずに押す。ボタン近くに立った場合はエレベーターガールのように閉を押す。先に出る場合は、出るときに中に残っている人のためにわざわざ閉ボタンを押してあげながら出る。そこまでする必要があるんでしょうかね~みたいな話が放送されてました。
欧米では自然と閉まるを待つのが普通のようですね。
自分も確かに閉ボタンを押してしまいます。
やっぱりせっかちなのでしょうか。
お坊さんになると自然に閉まるのを待ったりしますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ほんの小さな気遣い
tak 様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
拙生もエレベーターに乗りまして、ボタンの近くになりましたら、エレベーター案内員のように開閉を押したり、「何階ですか?」と聞いたりすることや、「出るときに中に残っている人のためにわざわざ閉ボタンを押してあげながら出る」こともあります。
これは国民性でしょうかね・・それとも習慣的な暗黙のルール的なところもあるように思いますし、また、地域によっても異なってくるのではないかと存じます。
拙生の地域は大阪で、せっかちなことで有名な関西人気質のところでもありますから、なおさらに「待てない」傾向があるのかもしれません。
また、ある意味では「ほんの小さな気遣い」と捉えることもできるのではないだろうかと存じます。
特にエレベーターの空間では、全くの赤の他人同士が狭い中でたまたまほんの少しの間一緒になるというところであり、一期一会の「縁」を気持ちよくスムーズに過ごすためにも、この「ほんの小さな気遣い」が少しくは役に立っているのではないだろうかと思う次第ではあります。
「無縁社会」と叫ばれている昨今、このような「ほんの小さな気遣い」からでも、もっともっと色々な気遣いが増えて、全体へと広がっていけば、優しさや思いやり、親切や感謝が溢れていくこととなり、より良く過ごせる人間社会となるのではないだろうかと存じております。
様々な関係性の中において存在することができている、つまり「縁起」なる存在である私たちにおいては、この世界にあって「無関心」ではいけないことが数多くあります。身近なことから、政治・経済・金融、国際問題、環境問題に至るまで、「無関心」によって自らの存在を危めてしまうようなことをできるだけ避けれるようにしていくことが必要ではないだろうかと考えております。
そのためにもまず日々における「ほんの小さな気遣い」をできるだけ大切にして参りたいものでございます。
川口英俊 合掌