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これからの生き方

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有り難し有り難し 20

身障者のまま、ただいきているのは苦しい

家族とも疎遠になり、悲しい

孤独死しても誰も分からない状況にあることなど頭を悩ませる


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一心

仏教ではこういうときによく「シュリハンドク」という方の話をひとつの生き方に
捉えることが多いです。

シュリハンドクという人は、なにもできない人でした。彼が唯一できたのは、掃除です。
おしゃかさまの弟子にはなったものの、他の弟子たちが出来ることは何一つできない
シュリハンドクでしたが、おしゃかさまからは、
「これからは一心に、垢を拂わん塵を除かんと唱えながら掃除をしなさい」
と言われ、それからそれをずっと続けました。
あるときシュリハンドクはおしゃかさまに「私は長年掃除を続けて来ましたが、きれいに
なったでしょうか」と聞くと「駄目だ」と言われます。
シュリハンドクにはそれがよくわかりません。どうしてこんなに掃除をしているのに
駄目だと言われたのだろう。

有るとき、子供たちがシュリハンドクの掃除をしたところを汚しました。
「こら!汚すな!」と怒ったときに、「あ、そうか。」と悟ったといいます。

汚れているから掃除をする。掃除をしたからきれいになった。
そうではないんです。

ただ一心に掃除をする、務める、いま、自分に出来ることを精一杯する。
これが「自分の生き方」だと気が付くのです。
これは、ずーっと掃除を続けてきたシュリハンドクだからわかったのです。

将来を不安に思わない人はいません。
でもそれは、「明日が来ることを信じている」からです。
明日がどうなるかなんてだれもわからない。

わからないものを不安に思って生きるのは、これ以上の不安が
明日におこらないようにするための防御みたいなものです。

これがわかった時にわたしはこうおもって生きるようにしました。
「明日はみんなにとってのいい日になるように。」
そう願って寝ます。それでだめだったとしても、同じことを思いながら夜寝ます。
わたしもなにも出来ない人間です。
出来るのは、祈ることくらい。ならばその祈りを一心にする。

死ぬかもしれない明日、でも、みんなが喜びにあふれるような日になれば。
そう思いながら寝る夜は楽しいです。

なにもできない中でも、こうしてネットで言葉を発することが出来る。
これは、大きなことではないでしょうか。

ひとつひとつ、出来る事を見つめていく。
明日はどうなるかはわからんのですから、できるなにかを一心に。
それが「今を生きる」ことなのではないでしょうか。

幸あれ幸あれ。合掌。

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有り難し
おきもち

寂しいことは寂しいことで真実です。
会いたいよ、と家族にお伝えされることをお勧めします。
私は自分を責めることの多い人生を歩んできました。
自分なんてダメだ、人に迷惑ばかりかけて生きていても意味がない、常に誰かから責められているような気がする…、マイナス意識、ネガティブ根性の塊でありました。
何故そういう生き方になっていたかは問うことにあまり力を注ぎませんでした。恨みがましくなりますし、やっても救われなかったからです。
それよりも今苦しい、苦しいのは真実だ。
ではどうすれば苦しみが無くなるかをトコトン考えました。
自分に目を向けました。
すると自分が一番自分を苦しめていたということがよく分かりました。
人から教わったんではだめです。自分がネガティブな時、苦しい時、心の中で何をしているか、どういうことをしているかをヨーク見極めるのです。そうすると必ず自分が自分で自分いじめをしていることが良く分かります。「ああ、なんておろかしいことなんだろう」止めるように、第一歩を踏み出すことになると思います。自分が心の中で何をしているか、そこに焦点を当てて、そこに気づくべきです。
まず、自分を自分でつまらないものにしないことです。
生き方が厳しいと、自分を苦しめます。もっと、もっと、自分を緩めて生きてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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