これからの生き方
身障者のまま、ただいきているのは苦しい
家族とも疎遠になり、悲しい
孤独死しても誰も分からない状況にあることなど頭を悩ませる
私は若い頃から起業し、またNTT COMの管理職などをしてきました。12年前から躁鬱病で苦しみ、ついに副作用で歩けなくなり、仕事もできず離婚もし、今は一般生活が送れず、生き甲斐もなくほとんどねむれずぐったりとした日々を送っています。将来の希望が持てず苦しみの毎日です。
身体障害者で今後、何を目標に生きていけば良いのか迷っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一心
仏教ではこういうときによく「シュリハンドク」という方の話をひとつの生き方に
捉えることが多いです。
シュリハンドクという人は、なにもできない人でした。彼が唯一できたのは、掃除です。
おしゃかさまの弟子にはなったものの、他の弟子たちが出来ることは何一つできない
シュリハンドクでしたが、おしゃかさまからは、
「これからは一心に、垢を拂わん塵を除かんと唱えながら掃除をしなさい」
と言われ、それからそれをずっと続けました。
あるときシュリハンドクはおしゃかさまに「私は長年掃除を続けて来ましたが、きれいに
なったでしょうか」と聞くと「駄目だ」と言われます。
シュリハンドクにはそれがよくわかりません。どうしてこんなに掃除をしているのに
駄目だと言われたのだろう。
有るとき、子供たちがシュリハンドクの掃除をしたところを汚しました。
「こら!汚すな!」と怒ったときに、「あ、そうか。」と悟ったといいます。
汚れているから掃除をする。掃除をしたからきれいになった。
そうではないんです。
ただ一心に掃除をする、務める、いま、自分に出来ることを精一杯する。
これが「自分の生き方」だと気が付くのです。
これは、ずーっと掃除を続けてきたシュリハンドクだからわかったのです。
将来を不安に思わない人はいません。
でもそれは、「明日が来ることを信じている」からです。
明日がどうなるかなんてだれもわからない。
わからないものを不安に思って生きるのは、これ以上の不安が
明日におこらないようにするための防御みたいなものです。
これがわかった時にわたしはこうおもって生きるようにしました。
「明日はみんなにとってのいい日になるように。」
そう願って寝ます。それでだめだったとしても、同じことを思いながら夜寝ます。
わたしもなにも出来ない人間です。
出来るのは、祈ることくらい。ならばその祈りを一心にする。
死ぬかもしれない明日、でも、みんなが喜びにあふれるような日になれば。
そう思いながら寝る夜は楽しいです。
なにもできない中でも、こうしてネットで言葉を発することが出来る。
これは、大きなことではないでしょうか。
ひとつひとつ、出来る事を見つめていく。
明日はどうなるかはわからんのですから、できるなにかを一心に。
それが「今を生きる」ことなのではないでしょうか。
幸あれ幸あれ。合掌。
寂しいことは寂しいことで真実です。
会いたいよ、と家族にお伝えされることをお勧めします。
私は自分を責めることの多い人生を歩んできました。
自分なんてダメだ、人に迷惑ばかりかけて生きていても意味がない、常に誰かから責められているような気がする…、マイナス意識、ネガティブ根性の塊でありました。
何故そういう生き方になっていたかは問うことにあまり力を注ぎませんでした。恨みがましくなりますし、やっても救われなかったからです。
それよりも今苦しい、苦しいのは真実だ。
ではどうすれば苦しみが無くなるかをトコトン考えました。
自分に目を向けました。
すると自分が一番自分を苦しめていたということがよく分かりました。
人から教わったんではだめです。自分がネガティブな時、苦しい時、心の中で何をしているか、どういうことをしているかをヨーク見極めるのです。そうすると必ず自分が自分で自分いじめをしていることが良く分かります。「ああ、なんておろかしいことなんだろう」止めるように、第一歩を踏み出すことになると思います。自分が心の中で何をしているか、そこに焦点を当てて、そこに気づくべきです。
まず、自分を自分でつまらないものにしないことです。
生き方が厳しいと、自分を苦しめます。もっと、もっと、自分を緩めて生きてください。