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受験を乗り越えるためには

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あと一ヶ月に迫った受験を前にして奮起できない自分に涙が出てきます。

私の第一志望は水産学系の大学なのですが、母は年収がいいから「国立医学部にいけ」と言います。
とても医学部なんていける成績ではないし、医師が私に務まるともおもえません。母が心底残念そうな顔をするので、私はそんな思いをさせてまで行く意味はあるのだろうかと考えてしまいます。
しかし大反対の末、浪人させてもらってるのでとにかく合格しなければならないのはわかっていますが、頭のどこかで気にしているのか勉強しながら涙がでます。人に言われて嫌だったことなどもフラッシュバックしてきてもう止まらなくなります。

しかし、この時期に受かってやる強い意志で勉強できないと絶対に落ちてしまいます。それができない自分に腹が立ちます。

なんだか大袈裟ですが、未来に希望がもてません。
自分より辛い境遇の方はたくさんいらっしゃると思いますので、こんなことで悩む自分が情けないです。
どうやったら前向きになり、受験を乗り越えられるでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの人生はあなたが決める

いのりさん

あなたの人生はあなたが決める
間違っても自分の思いを押し殺して
母の願いに応えるためではありません

本当の自分を生きたいと
涙が流れるのではないのでしょうか

ただ親は親でいのりさんの
幸せを考えているのだと思います。
医者になれば年収がいいから幸せだろうと

ですが
いのりさんの幸せは
いのりさんの思いを生きることです。
勉強頑張ってください。

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おきもち

母親を別の意味で乗り越えなさい

これはあなたというより、お母さんに申しあげたいことです。
「お母さんもお医者さんなのでしょうか?
自分が医者でもないのに子供に高い理想を要求するのは、親の叶わなかった夢という重荷を持たせるようなものです。もしくは自分のコンプレックス解消のために娘に「この子に幸せになってほ・し・い・か・ら♡」という欲・エゴを夢と勘違いして酔いしれて、子供を所有物化している姿です。それがどれだけ子供にとって重荷、プレッシャーになっているかきちんと配慮してあげてください。

さて、あなたはお母さんとは生命体的にも別存在です。
お母さんに「わがもの」とされることなく自分の道を歩んでください。
周りのみんな誰もがお医者さんなのでしょうか?
みんなそれぞれ好きな道を歩んでいるはずです。
それでいいのです。
わたしも医者になれと言われても断ると思いますが、現在、僧侶という心の医者をやっています。
あなたも水産系に進んで人のニーズにこたえられる水産的医療活動はできるはずです。
知人が水産系で河川や海、環境の調査をしています。彼は地球規模で河川の環境を良くしていこうと働きかけています。お金にはならないかもしれません。ですが、お金以上の地球規模貢献なのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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