仕事をはじめて
一年間の休職終わり、復職出来ずに退社。病気のことで離婚、家から
家族がいなくなる。一人ぼっちになる。
先週から仕事について働き出したが、今までのようにいかず、やる気共に張り合いがでない。
何のために働くのか?何のために生きているのか?わからない。
一人の家は寂しい、辛い、どうしたらいいのか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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共に生きたい
コウキ様、これまでのご相談と合わせて拝見しました。
大変お辛い状況の中で再びお仕事に就かれましたこと、現在はやりがいを見い出せていないようではありますが、私からはおめでとうございますと言わせてください。
コウキ様がご自身の現実と向き合い、歩みを始めたことからの賜物かと存じます。
さて、これまでのご家族との生活を失った上でのお一人の生活がどのようなものであるか、私にはとても想像がつかない現実であります。しかし、その寂しさや辛さを受け入れるところからでないと始まらないのではないでしょうか?
あの頃に戻りたいと思ってももう戻れません。過去ではなく、今を生きてまいりましょう。
辛さや寂しさを忘れろ、とか、乗り越えろ、と言うわけではありません。辛いまま、寂しいまま、それを感じたままで生きていきましょう。
そんな生活が何のためかわからないと投げやりになるのも、再び意味を見い出して引き受けていくのもコウキ様次第です。
家族のために生きるのであれば、家族を失えば生きる意味を失います。
仕事のため、健康のため、~のため、そうやって生きがいを設定することは悪い事ではありませんが、ひとたびそれを失うと虚無感に襲われてしまいます。
人生では何が起こるかわかりません。私たちが「~のため」と人生に意味を問う前に実は人生から「どう生きる?」と問われているのが私たちです。
それに対してどう応えるか、どういう態度を示すか、ここに私たちの自由があります。この一点において人生の意味は究極的に失われません。
再び家族と過ごせるかもしれない。過ごせなくてもいつか会えるかもしれない。家族以外に新たな仲間ができるかもしれない。新しい生きがいがみつかるかもしれない。
そう信じて生きるのも、もうどうでもいいとふさぎ込むのもコウキ様の自由なのです。
人生から問われ、試され、求められているのが私たちです。辛くても寂しくても「どう生きるのだ?」と問われています。問いに応えましょう。答えを決める必要はありません。応える、反応するんです。現実を歩むのです。
未来は変えられるかもしれない、そう信じて今を生きていきましょう。
上手くお言葉をかけられれず申し訳ありませんが、私はここでいただいたコウキ様とのご縁が有り難いことだと思います。そしてこれからコウキ様がどう生きるのか見せていただければ幸いでございます。