人間は何のために、どこに向かうんですか?
人間は、生まれて死にます。それが子孫を残すことでずーっと何年も続いています。この先もいつまでかは分からないけど、続くんだろうなと思います。
でも人間って、何のためにそれを繰り返してるんですか?みんな当たり前のようにそうやって、生まれて生きて、子孫を残して死んで、をただ繰り返してるけど、これって何のためにやってるんですか?
私が知りたいのは、ひとりの人が何のために生きるかということではなくて、人類全体として、何のために、どこに向かうのかということです。
ずっとこのサイクルを繰り返して、いろんなものが発展して進化する、何か目的があるんですか?目的があるとしたら、何でしょうか。 無いとしたら、何のために存在するんですか。ゴールはなんですか?あるんですか? お坊さんの考えを教えてください。
生きることが嫌になったとかそういうのではなくて、単純に知りたいんです。あと、いま私は19歳なんですが、小学生の頃からずっと考えてます。人にこの話をすると、考えたこと無いし興味無い。言ってる意味がわからない、別に知りたいと思わない、とか言われます。なんで人はみんな、自分もこのサイクルに参加してるのに、このことを疑問に思わないんですか?不思議です。私がおかしいんですか…
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こんにちは、いいご質問ですね。
私も未だにそういうことを考えることがあります。
結論から言えば人類の生き死ににゴールや明確な目的はありません。
遺伝子や科学は進歩したり、ある部分は退化したりしながら前進していくんでしょうが、ゲームのようにある一定のレベルに到達したら終わりというものもありません。
経過ははしょりますが、仏教の観点では生老病死は我々自身の意思ではどうしようもないことなのです。
つまり生も死も自身でコントロールすることはできませんよね。
自身で生まれたり死ぬ時期をコントロールしたりと、目標なり目的を設定できるなら結論も導きだせるのですが、残念ながら生まれることも死ぬことも我々は受動態です。
こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、生まれてきてしまった以上はもう変えることのできない事実なので、今後どういう風に生きるべきなのかを最優先に考えるのが仏教的な考え方です。
もっと距離を近くして一般社会的に考えるならば、自身がどういう性質や能力を持っていて、それをどうやって周りの人のために役立てられるかを考えるのが生きるという事でしょうか。
なんだかありきたりの回答になってしまってすみません。
毒箭(どくせん)の喩え
仏教の開祖お釈迦さまの説話にこんなお話があります。
お釈迦様の弟子にマールンクヤという哲学青年がいました。
彼は常日頃から「死後の世界はあるのか、宇宙は有限か無限か」
というようなことばかり考えていました。
事あるごとにお釈迦様にこの事を尋ねるのですがお答えになられません。
しびれを切らしたマールンクヤは
「今日こそお答えください。お答えいただけなければ教団を去ることにします」
と迫った彼にお釈迦さまはこう答えました。
「マールンクヤよ。ある男が森の中で毒矢に射られたと想像しなさい。友人が毒矢を抜いて治療しようとした時、その男は『待て!この毒矢を射たのは誰なのか、カースト(インドの身分)はなんなのか、肌の色は黒か白か、身長はどれくらいか、そしてこの毒の成分はなんなのか。それらがわかるまではこの毒矢は抜いてくれるな』と言った。この男の言うとおりにすれば、毒が回って死んでしまう。大事なことはただちに毒矢を抜いて治療することである。宇宙が有限か無限か。そんなことに頭を悩ませていては、たちまちに死んでしまうだろう。」
これを毒箭の喩えといいます。
私たちは、万物の霊長などと胸を張っていますが
地中にくらす目のないモグラが人間世界の実情を知りえないように、
人間ごときにそもそもこの大宇宙のこと、命の営みの不思議など
わかるはずがないのです。
科学がどれだけ進もうと「なんのために」はわからないでしょう。
でも、『私』が今ここに生きて、存在している不思議だけはわかります。
それはまさしく『神秘』のような現象であることは間違いないのです。
そして、わかりえないことであるからこそ、
『信仰』がよりどころになってくるのです。
りんごさま
私の考えです。
人類は何のために、どこへ向かうか?の万人に共通する答え
普遍的な答えはないと思います。
何のためにという目的、意味、そのものについてですけど
人は意味の世界の中に生まれてきたのではなく、
人という存在が持っている様々な機能、見たり、聞いたり・・
そのなかの認識作用の上に「意味」が成立していますよね。
意味があって自分があるのではなく、
自分(いのちの働き)があって意味が生じるという
順番だと思います。ですのであらゆる意味は、
自分の中に見出すもの、自ら創造するものと
わたしは思います。
わたしは人類全体のゴールは、個の魂の完成と言いますか、
もともと仏であったことを気づくこと、思いだすことと思います。
人の本質に目覚めることと思います。
人類の平和といっても外側をやりくりしても無理とおもいます。
個々が内側を整えて初めて達成されると思います。
お互い磨きあうために、この世のいろいろなことが
起きているのだと思います。追い詰められないと
なかなか気づけないので、苦しい事、悲しいことも
沢山あるのだと思います。
小学校から問い続けているとのこと。
おかしくなんてないです。全然。
問い続けて、問い続けてください。必ず答え、帰ってきます。
疑問に思わない人、多いといえば多いようです。
問いのない人に答えはありません。
常識、意味づけ、思い込み、決めつけなど
知らず知らずにお決まりの見方をしてしまい
本当のことが見えにくくなっています。
坐禅や公案はそうした見方を離れるためのものでも
あります。
善悪、損得、きれい汚い、そうした意味づけ、価値づけを
離れて、ただただ目の前のこと一生懸命やっていると
大切な気づきが増えると思います。
答えは自分で見つける!。
こんにちは、りんごさん。私なんか55年近く生きてますけどまだわからない。だた、一つだけ解るとすれば、答えは自分の中にあるという事です。自分は誰か自分に問いかけましょう。そして自分の花を咲かせましょう。自分の魂に問いかけてください!。
無始無終の輪廻を打ち破る時が来たのです。
りんご☆様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
私たちは、この無始無終の輪廻において、無明の闇路を長い間にわたり、漂い続けて参りました。
その疑問に気づかれたのであれば、いよいよ、無明(根本的な無知)を晴らすために仏道に出発する時が来たのです。有り難し。
人間だけでなく、全ての衆生(地球の有情たちだけでなく、この宇宙、全ての宇宙の有情たち、地獄や餓鬼の有情たちなど、全ての有情たち)の輪廻(迷い苦しみの繰り返し)を終わらすために、悟りを目指すのだという尊い菩提心を起こして、是非、仏教を修習して参りましょう。
仏教の目的・ゴールは、全ての衆生の悟り・涅槃です。
共に頑張って仏道を歩んで参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。とても興味深い回答ばかりで、また改めて深く考えさせられました。ほんとうにありがとうございました。