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自分のあり方について

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いつも拝見させて頂いてます。よろしくお願いいたします。

私は一年程前に鬱と診断され鬱と共に生きています。

職業柄他の人には言えず、彼女だけに伝えています。
今、仕事を移るために職場を辞め、新しい職場を探しています。
しかし、なかなか新しい職場が見つからず自分の気持ちが黒く塗り潰されるように感じて、全てに自信が持てず、一人部屋に居ると自ら命を絶つことしか浮かびません。

今はまだ死への恐怖が上回り、行動には移せませんが、いつか自分がふと行動に起こさないか心配です。

彼女一人に負担がかかっていて、このままではいけないと自分でもわかっているのですがどうすることも出来ません。

今は全てに依存していると感じます
私自身鬱は無くならない、誰にでも有り、一生付き合う物と思い生きるつもりです。

このまま鬱と共に私は自立し生きて行けるでしょうか?

私に今信仰してるものもありません。
宗教とは心にある基盤に寄り添う物だと感じています。
神や仏に縋り生きて行く事は自立になるのでしょうか?

このような質問をするのは初めてで文も纏まらずすみません。

私自身命を軽んじる気持ちはありません。
ですが、今自分の命の価値は感じられません。

希望が欲しいです。

無理な事を押し付けて申し訳ありません。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

うつであることを嫌わないようにしましょう

人間みんな死亡率100%です。
自ら命を絶たずとも私もいつか私もおさらばです。まずは、自ら命を絶つことだけは誰も救われないのでそれだけはやめましょう。
知人に長年ウツの方がいまして、よくお酒を共にしていました。
よろこばしい事に最近に急にうつが治ったそうです。
「うつが2週間で治る本」とかいう本でケロリと治ったそうです。
❝自分を責める❞のが止まったそうです。
以前も読んだことがあったそうなのですが、本に書かれていることの真意を理解したそうです。
原因は、病気の方にあるのではない、という事だそうです。
原因は、誰かのせいではなかったそうです。
それを嫌ったり、自分を責める事の方が、問題なのです。
ウツのせいにしていませんか。
何かのせいにしていませんか?
自分を責めるような考えをしていませんか?
それが、誰かほかの人のせいだと思っていませんか。
思いのペダルをこぐのを止めましょう。
坐禅でうつが治る人もいます。
考え事がやんで、事実の世界を生きるようになるからです。
坐禅は老若男女、病人でも誰でもできます。イスでもできます。
それによってどうなるかと言えば、病人は病気であることを厭わなくなります。
年輩者は自分が老いていても老いを厭わなくなります。
たとえ自分が世間でいう所のそういう苦境に当っても、それをそのままにできるのです。
考え事や、思いを重ねないからです。
人が苦しい時って絶対に考えゴトしてますよね。
今の事実の上に、考え事のふりかけを注ぐのですよ。
だから、考え事してない時って、絶対に苦しみって起こらないのです。
余分な注ぎ事が無いからです。
思いのペダルをこぐこのを止めましょう。
やめようと、思い立たせましょう。
それを頭の中でやっているだけでなく、実行しましょう。

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自ら命を絶たないと私と約束して下さい。

習慣さん。
鬱をかかえながらの転職、ご苦労が多いことと思います。
どうか、焦らず、思い詰めず、ゆっくりじっくりとを心がけて頂けたらと思います。

鬱とともに歩むと言う事は、人生の価値観を転換する善いチャンスでもあります。
人生の価値観を変える事で鬱は人生を楽にしてくれる事があるように思えます。

足りないものや出来ない事を数えるのではなく、
今あるもの、今出来る事をひとつずつ数えてみて下さい。

鬱である事を話せて、支えて下さる彼女がいらっしゃるとの事ですね。
何よりの宝ではないでしょうか?
貴方が身につけている仕事の技術。これも損なわれる事の無い宝物ですね。

負担をかけてすまない、という思いを「ありがとう」という感謝に変えてみましょう。

「お金」や「名誉」よりも
人との関わりで起こる「慈愛」の方がはるかに価値があると思うのです。

宗教は暗闇の峠道を歩く時の懐中電灯にあたると思います。
歩くのは本人です。

でも、その歩みが道を踏み外して崖から転がり落ちないように、しっかりと足元を照らしてくれるもの…それが宗教だと思います。

私自身、波瀾万丈な人生を歩んできましたが、今の自分があるのは宗教のおかげであると強く強くそう思っています。

お寺の瞑想会や坐禅会、または法話会などに足を運んでみてはいかがでしょうか?
もし、宗教という言葉がひっかかるのであれば、最近はマインドフルネスが流行っているようですから、そちらも善いかもしれません。

どうぞ、ご自分を大事になさって下さいね。
自分が自分らしく生きる生き方が見つかりますようお祈りいたしております。

余談:前の職場では雇用保険には入っていたのでしょうか?
ハローワークで雇用保険を頂く時に鬱と診断されている事を言えば
就職困難者として失業保険の受給期間が伸びます。

追記1:寺子屋等何か外に向かっての働きかけのあるお寺なら相談に行かれても大丈夫だと思います。ただし、事前に電話でお寺の忙しくない時を聞いて相談の約束を取り付けてください。布施は境内の掃除や落ち掃きなどでも良いと思います。
追記2:もし、失業保険の受給の間に仕事が見つからなかった場合は各都道府県の福祉協議会から生活福祉資金貸付を受ける事が可能であると思います。失業保険が終わる頃、必要になりそうな時に各都道府県の福祉協議会にお問い合わせください

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仏道に入門して36年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...

仏様の話を聴聞してほしい。

モノの価値は自分が付けるのではありません。
自分以外の存在が価値を見出してくれるのです。
習慣さんが「自分の命に価値を感じない」と思っているのは事実でしょう。
しかし、価値があると言ってくださる仏様がいます。
私たちの命を見捨てることができないのが仏様です。
そんな仏様の話を聞いてからでも死ぬのは遅くありません。

仏様が私の為にどれだけのご苦労をしてくださったか。
ご苦労を聞かせて頂くとき、少し私のいのちの価値を知ることができるかもしれません。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

質問者からのお礼

悟東あすか様ありがとうございます。

私は以前友人にお寺の息子がいてそのお寺の寺子屋に行っていました。
なので、私自身宗教への考えは『支え』『信念』だと思っています。
なので差別や偏見などは持っていません。
もう一度お寺へ行き、自分を見つめ直したいのですが、気軽に行って良いものか、あとお恥ずかしい話、今の生活で貯金も尽きてしまい、お布施なども出来ない状態です。
そのような時でもご相談だけでも行って良いものでしょうか?
あと、心配して頂いた保険は今申請中です。

「自分とは・自分を何とかしたい」問答一覧

好きなこと、楽しいこととの距離感について

毎度、妙な質問で申し訳ありません。 私は娯楽との付き合い方が下手です。 好きなこと、楽しいこととどのように向き合っていけばいいのか悩んでいます。 ・いつか好きでいられなくなるのが怖い (無用な先の心配) ・自分よりそれを深く楽しんでいる人に嫉妬してしまう(他人との比較、妬み) ・感動的なものに触れると心が辛くなる (寂しい、切ない、軽く締め付けられるような感覚) ・楽しみ終えたあとの喪失感が怖い (これも無用な先の心配) 何かを楽しもうとすると、このような気持ちが湧いてきて、心が乱れます。 例えば何か好きな作品を見つけても、 「ネットにたくさん感想や考察が投稿されている。みんな自分よりも、愛も理解も深くて羨ましい…」 「作者さんのトークイベントかあ。楽しそう…楽しすぎて心が疲れそうだし、終わった後の喪失感が怖い…行きたいけど怖い、だったらいっそ台風で中止にでもなればすっきりするのに…」 といった考えをしてしまいます。 比較しても仕方ないのですが、なぜ他の人と同じように素直な気持ちで楽しめないのか分かりません。 私は、どのような姿勢で好きなことに向き合えばいいのでしょうか。 大変な状況にいる方々が多い中、このような矮小な悩み相談を投稿してしまい申し訳ありません。 ぜひ、お時間のある際に、お言葉を頂けると大変嬉しく思います。

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好きな事を極める力

今まで好きだと思った事に関しては突き詰められる性分だと思ってきました。 けれど、当たり前かもしれませんが、突き詰めていくと自分よりも情熱もセンスもある人に出会います。 趣味であればマイペースに続けていくので良いのでしょうが、仕事となると情熱を求められる時があり、自分の情熱のなさに自分でがっかりします。 始める時には情熱だけはあると思っていたにも関わらず、いつも気付かされるのです。 もちろん仕事に関しては自分なりに真剣に取り組み、向上心もあるつもりです。でもあと一歩足りない気がするのです。 きっと私のやろうとしている事は、好きで成り立っている仕事なのかもしれないです。休みの日にも仕事の事を考えていられるほど好きな人じゃないと難しいのかなと思います。 そして、それを求められてる気もします。 その情熱に圧倒されてしまって、しんどくなってしまう事があります。 私は自分の生活や環境やすべてを懸けてまでやりたいとは思っていないのだと自分で分かります。 どんなに好きだと思えていた事でもそうなんです。 幸せに生きる為の手段のひとつとして、その仕事をしたいと思うだけなのです。 その仕事を1日中していれば幸せとは思えません。 皆何かのプロになっている様に思うのに、私には何かを極める力がないのかなと思います。 更に、私自身の心はあまり強くないと自覚しているので、怒られたり否定的な物言いをされる事が本当に苦手で、それが続くとそれが原因で仕事が続かなくなります。 仕事はできれば続けたいので、そういった環境はできるだけ避ける様にしたい。とも考えています。 突き詰めようとすると、情熱を持つ人との間に軋轢が生まれやすい気がしますし、こんなその人から見たら中途半端な気持ちでやりたいと思うのは失礼な気もします。 そんな事を考えてる内に自分が何を基準に仕事を選ぶべきか分からなくなってきました。 自分の心が病まず、毎日を送れる事を大切にしたいのなら、あまり突き詰めすぎずに無難に続けられる仕事を選ぶべきなのかなというのが今の私の出した答えでした。 偏差値が自分より高い高校を目指すのではなく、安全に入れる高校を目指すのに似ています。けれどその考え方はなんだか淋しく腑に落ちなく感じて、足踏みしています。 何か助言を頂きたいです。 よろしくお願い致します。

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好きな事が一切向いていなかったらしいです

こんにちは。今回もお坊さんの助言を聞きたくて質問させて頂きました。 今は心身共に安定し、新しい趣味もできて、お陰様で充実している毎日を過ごしています。 しかし最近、心に少しもやもやとした感情ができています。長くなりますが、どうかお付き合い下さい。 私が中学生の時にバスケ部に所属していました。元々私はスポーツはあまり好きじゃないのですが、県内でもトップクラスに上手かった兄と同じ部活に入らないと行けないと思い、不本意ながら入りました。(親にも部活には入れと言われていました) 私はそうしてバスケ部に入り、真面目にやりましたが、空気が読めなかったのでいじめられてしまいした。その頃のトラウマでフラッシュバックが偶に起こります。 私は耐えたのですが、私の部活の取り組み方に対して、親に怒られ、理解者がいなくなり、ついに私は折れ練習に行かなくなりました。(部活を辞めると怒られるので、結局辞めませんでした) 話が長くなるので、高校まで省きます。 私は不本意に部活に入った事へ後悔し、今度は自分の好きな事をとことん突き詰めたいと思いました。そうして恥ずかしながら選んだのはゲームです。 その時の私は中学の時の記憶に苛まれながらも必死にやりました。やり過ぎて途中から幻聴が聞こえるようになりました(流石にヤバいと思い、一旦時間を置きました) 高校3年までやりましたが、結果は出ませんでした。 オチはなく、そこで話は終わりです。 今は新しい趣味を見つけ、充実しているかと言えばしているのですが、ふと、思う事があります。 何故、兄は努力が認められ、様々な人から慕われ、学生時代を謳歌したのに、何故、兄より数倍も努力し、考え抜いた私はこんなに暗いところを独りで歩いているのかと。 才能がなかったのでしょう。ただ、何故ここまで差があるのか。人生に嫌われていると思うほどです。自分より酷い目に遭っている人もいると承知しています。ただ、なんでやる事なす事努力した事がここまで水の泡になったのか。 流石に無慈悲ではありませんか。 そしてもう一つ質問があります。 正直に言うと、そこまで長く生きたくはありません。今は少しは楽しいのですが、このままずっと兄のように日の目を見る事はないのなら、私は長生きしたくありません。 どうしたら人生に希望が持てますか?

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完璧主義とどう付き合うべきか

はじめまして。常日頃悩んでいる事をお坊さんに相談したく質問文を書きました。 最初に言うと私は完璧主義者です。いつも自身の目標を高く設定して、行っている事のミスが許せず、目標を達成出来なかったら次の日に自殺してやろうと常日頃考えていました。その性格のおかげもあって、私は自身が立てていた高い目標をいつも達成出来ていました。 しかし、高い目標に向かって努力している間はとても辛く、何かミスをしてしまった場合、ミスの対処や対策法を考えるよりも先に、自分を1時間ほど殴ってしまいます。無論、そんな時間は自分でも無駄だと分かってはいるんですが、考えるよりも先に何故か手が出てしまいます。さらに最近はこの考えが悪化してきており、今までなら見過ごしてきたような小さいミスでも、自分を強く殴ってしまいます。そのせいで、肩と太モモの青アザが大きくなってきており、お風呂に入るたびにそのアザを見て、自分は何て愚かなことをしてるんだろうと泣いています。 こんな惨めな気分にならないためにも自分の完璧主義的な考えを捨て去りたいのですが、この完璧主義的な考えのおかげで成功したことも多く、この考えを捨てたら自分がダメな人間になってしまうんじゃないかと恐れています。 お坊さん、私はどうしたら良いのか教えて下さい。今はある目標を掲げており、それを達成出来なかったら自殺するつもりですが、ここ最近は自殺の方法だけを考えています。このままでは頭がおかしくなってしまいます。 こんなこと親や友達には相談できません。私はこの完璧主義的な考えとどう付き合うべきか教えてください。よろしくお願いします。

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自分の中の恐れ

前述までで、私をある程度は分かっていただけるかと思います。 毎度、有難いお言葉本当に有難うございます。 昨年度末、きっかけがあり今年に入ってから5年ぶりくらいに実家へも帰省しました。 実家から戻ってきてからの自分の行動も自分自身で変わったと思う部分もあり、気分に左右されず自分の決めたことをやりながら目指すものに向かおうとしています。 自動車学校ではありますが、学校という名のつくものに行けていることは私の中では奇跡と言ってもいいくらいです。「俺行動できてるじゃん」そう思えたことがすごく嬉しいです。 しかし、最近になって気づきました。私が変わったのは、一定の範囲の中だと。できることが増えて、できないことから逃げてるることには変わりないです。 それは大学での一件です。思い返せば全てそのせいにしてしまっています。 いずれは、自分自身が死んだ後から遡ってなりたい人間はこういう人間だと考えるなら、必ずといっていいほど乗り越えられないといけない壁だと思っています。 他人から見ればその程度、けれども自分から見たらとんでもなく思い作業でありそういう事もそれぞれあるかとは思います。 今までの私であれば、大学当時のせいにしてそれに焦り絶望し自分を悲観しそれに飲まれていたのかとも思いますし、だからといって飲まれないことなどないありません。日々自分に負けないように必死です。 私がいきたい場所はもっとうえです。偉そうに言いますが、仏様に近い人間であると言ってもいいと思います。 それ相応の行動が必要です。行動できた自分。起きたことの悲惨さのせいにしてしまって行動できない自分。両方存在し、すごく葛藤しています。 誰も分からないでしょうが、戦争から帰還したのに、なぜ生恥を晒すのだと、自害しろと言われているような気分でした。 しかしそれが抜けてないのです。 変わった部分はあるかもしれませんが、1番大事な本質的な部分では変われていないことに気づきました。それが毎日悔しいです。最近になり逆菩薩という言葉を知りましたが、どこまでもそういう人生なにだろうと思うところもあります。 だとするなら、私が今やるべきことで、できることは自分の決めたことを精一杯やることだけでしょうか?その行動の、反省の厳しさによって、未来が変わってくるにでしょうか? 私は、どうするべきで、どうしたらいいのでしょうか?

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自分の長所は「歪み」なのか?

朝からビジネス書を読んでいて、精神医学と鬱の話が載っていて、その中に「認知の歪みは鬱になる」とありました。 さらに読み進めていくと、「他人から褒められた時に自分を実際以上に過小評価したり、自分が失敗した時に自分のミスを過大評価する考え方は認知の歪みで鬱になりやすい」とありました。 私は、地方の所謂進学校を出て都会の一応一流大学(旧帝大クラス)に入り、非正規ではありますが職に就き、それをリタイアして音楽活動を続けていますが、自分に対する褒め言葉を過大評価し過ぎず自分の失敗に対して過小評価し過ぎず大変厳しく自分を律してきたので、一流大学にも入れたし非正規でも働けてリタイアするだけの貯金も作れたし、歳を取って始めた音楽活動も10年以上続けてこれたのです。 そういう私の長所というか誇りにしてきた考え方を単に「歪んでる」みたいな言葉で相対化されて凹んでいます。 私の生き方は鬱を引き起こすのか?と。 確かに学生時代に、色々な用事を引き受け過ぎて精神的過労から3ヶ月ほど休学したことはありますが、それを1年くらいでリカバーして一流大学に合格しました。 何か、鬱を嫌い気楽に生きたほうが生きるのには楽、みたいな風潮はありますが、私はそれだと凄く退屈な日常で飽きてしまって何かやり出すと思います。 今でも他の人から見ればストイックであまり休まない日々ですが鬱にはなってはいません。 こういう、精神医学とか心理学系の著者が人間が本来持っている精神力とかバイタリティを相対化して茶化す言葉の使い方は、何か言葉そのものを貶めているような嫌な感覚があります。 人の営為を「歪んでいる」と脅して「お前は病んでいる」と診断して合理的や科学的な視点だけで人間存在を割り切る姿勢には凄く違和感があるし、たとえ言論の自由だとはいえ大手出版社が自分たちの著作で取り上げて人を傷つける意義があるのか、さっぱり分かりません。

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自分で決めたはずなのに破ってしまいました

過去に中絶の経験があります。あるきっかけがあるまでは、記憶の片隅に追いやり忘れようとして、実際に忘れているときもありました。 その後月日は流れ、別の方と結婚をして、待望の妊娠をしましたが流産となりました。 そのときに、流産となってしまった子にごめんねという気持ちと共に、堕胎した子に対しても奇跡的に私の元に宿ってくれた命だったのに堕胎した上に忘れるだなんて、なんてことをしてきてしまったのだろうと強く思い、二人の供養のために写経を始めました。 月に1回、二人の月命日のうち早い方である堕胎した子の月命日までに写経をし、手を合わすことにしていました。1年ほど続けたら、2人の祥月命日の年2回にしてずっと続けていこうと思っていました。 そうやって数ヶ月、自分なりに供養をしていたのですが。。。 今月、気づいたらその日を2日も過ぎていました。 昨今の事情もあり仕事で忙殺されていた、と言い訳するのは簡単ですが、忙しいというだけで忘れていい事ではないと思うのです。写経以外にも、毎晩、できる時には朝も、亡くなった家族や先祖代々の皆様に手を合わせていますが、その時に水子にも呼びかけていたにも関わらず、水子供養のための写経を完全に忘れる。これでは毎日手を合わせていたのもただの習慣に成り下がっていたのではないかと罪悪感でいっぱいです。 しかも特に今月は堕胎した子の祥月命日でした。よりにもよって祥月命日の供養を忘れるなんて。 実は祥月命日と私にとって大切な日が同じ日なので、忘れようとしていた期間でも思い出したりしていたのですが、今年に限って全く思い出しませんでした。 この供養が本当に二人のことを思ってやっていたことなのか、罪悪感から逃れるため自分のためにやっていたのか。。本当に二人のことを思っていたら忘れたりしませんよね。 遅れてしまった供養でも大丈夫なのでしょうか。自分で決めた供養すら忘れる、しかも年1回の祥月命日に限って忘れる私を許してくれるでしょうか。堕胎してしまった子からすれば、今まで長い間記憶の隅に追いやって、向き合い始めたと思ったらまた祥月命日を忘れるだなんてとんでもない仕打ちをしてしまったように思います。

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