生きること、死ぬこと、どっちが辛いのか
こんばんは。
昨今様々な悩みから、自殺衝動にかられて、
掲示板や知恵袋などに相談・質問する人が後を経ちませんが、
自殺防止サイトや一般の方からの回答に、
『死ぬことは生きることより辛いですよ。』とか、
『死んだら今より辛いですよことが待ってますよ。』という回答があるんですよね。
この世が辛くてお別れしたいのに、
お別れしたあとにも、もれなく辛いことが待ってるわけですよね?
まさに『生きるも地獄、死ぬも地獄』の人が、
この世にいるわけですよ。
そんな八方塞がりの状況の場合、
人はどの道に進めばいいのでしょうか?
救いの道はあるのでしょうか?
回答よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お返事を頂きましてありがとうございます
🙍再回答いたします。あとで戻しますが。
反論頂いても全くかまいませんよ(._.)okok
その考えもマッタク否定しません。
「死を選択した方が楽になれる」という感覚が現に本人の中に生まれているんですから。
私もそうでしたよ。
ただ、その後知ったことは、私の知人で自殺した人を持つ人たちは本当に悲しそう、苦しそうでした。
こう言っちゃなんですが、ああ、自ら死を選択して死んでいった人はあとさき考えず無責任だなぁ、とも思いました。責めている訳じゃないですからね。
関わり合いの意図が見えなくなっているのです。
その関係性の糸に暖かさを見出せる方法、あります。
とにかく、そういう感覚も含めて考えがまるっきり変わる、変える、転ずることはできます。
でもそれは、あなたがそういう風になりたい、と気持ちを奮い起こさないとなれません。
私は、酒を浴びるほど飲んで血を吐いて体のSOS 信号を感じて、ああ、これじゃいかん、これほどまでに苦しいなら本当に解放される道、救われる道を求めよう、と思うことができました。
生きながら開放される、救われる、より良くなる。その方がポジティブです。
どうせなら、王道で救われて解放された方がイイですよ。いちおうここは仏教的な救いのコーナーですから自殺容認はしません。
また、仏道を広められた方々は、皆一度や二度は人生の矛盾を感じられた方々です。
とことん堕ちる所まで落ちると失うものも何もなくなりました。
失いたくないなんて気持ちもないくらいに空っぽになりました。
その時私は死んだ方がイイ、楽になれる、なんていう小さな考えも無くなりました。
死を選択される方はそれが解放だと仰られますが、そう思われるのはご本人だけなのです。
その後、知人も、関係者も、家族も暗い思いを引きずります。
私もいずれ死んで草花の肥やしくらいにはなるでしょうが、今命が与えられている内は生きている人間の心に花を咲かせる肥やしくらいにはなりたいです。
効き目のある薬があるのにどうせ無理と思いこんでいるうちは飲みません。
私は薬の提供者なだけです。
あなたのネガティブな考えそのものを変える機会が今、到来しているのです。
誰もが誰かが自然に死んでいくことも止められない。
私はあなたが自ら死んでいくことは止められるものならば止めたいと思うまで。
「あなた」
TSURAI24さま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
いえ、ここでは「自死・自殺に向き合う僧侶の会」の浦上と自己紹介をさせて頂きます。
自死に対して『死ぬことは生きることより辛いですよ。』『死んだら今より辛いですよことが待ってますよ。』という回答があるのですね。
私は死んだことがないので、これが本当かどうか分かりません。
むしろ浄土教(仏教の中で、極楽浄土を説く浄土宗や浄土真宗)では、この世の縁を終えて往く世界は理想的な世界とされていますので、死んで救われるということもあるのかもしれません。
TSURAI24さん
ハンドルネームを拝見すると、きっととても辛く苦しい状況にあるのだと思います。
でも私は、「死にたい」と思っている方たちに、死んで欲しくないと思っています。
苦しんでいる方に「生きて欲しい」というのが酷なことなのは承知していますが、それでも私は「あなた」に生きて欲しいと念じています。
「自死・自殺に向き合う僧侶の会」HP
http://www.bouzsanga.org
「不生不滅」
TSURAI24様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
はい、救いの道はございます。それが仏道でございます。
「生きること、死ぬこと・・」・・さて、般若心経の中に、「不生不滅」という言葉がございます。
まあ、「不生不死」も同意でございます。仏教の究極的真理(勝義諦)としては、「生も死もございません」と一応言語表現として措定して言えることができます。
「えー生きるも死ぬも本当は無いの・・凄いー、なるほど、有り難き幸せ」と、まあ大抵の人は納得できないかとは存じます。世俗的真理(世俗諦)、つまり世間一般論として現に今生きているのは事実であり、やがて誰もが死ぬのも確かなる事実なのですから。。
では、なぜ、「不生不滅」だと仏教では述べるのか。ここをしっかりと考えて理解していくことが、この迷い苦しみの世界を超えていくために非常に大切な要諦となります。それは、つまり、自分という存在は、実体としての生もなければ滅(死)もない、ということの理解、いったいではどの自分が生きて死ぬというのか、そのような自分を探そうとしていくら探しても見つからない真理に気づけるかどうか、そこから、あらゆる全てのモノ・コトには実体が無いという「空」(無自性・無実体)を理解できるかどうか、そして、「空」とはいえども、確かにモノ・コトが成り立っている目の前の現実をどのように捉えるべきか、これはつまり「縁起」ということの理解となりますが、この「空と縁起」の理解を進めることが迷い苦しみを超えていく上で非常に重要な鍵となります。
更には、空と併せて、縁起の※三つのありようもしっかりと理解し、この迷い苦しむ存在にある原因(無明・煩悩・悪業)を対治するのに取り組むこと(善徳行・慈悲利他行、福徳の資糧を積む)により、迷い苦しみを超えた悟り・涅槃に到達することが可能になる次第となります。
是非、共に頑張って仏道に精進努力して歩んで参りましょう。
※縁起には、三つの階層があり、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名(けみょう)・仮説(けせつ)・仮設(けせつ)されることによるという依存関係」がございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
丹下様
ご回答頂きましてありがとうございます。
生きるも地獄、死ぬも地獄なら生きていた方が得をする。
周りの人を悲しませてしまう。
その通りだと思いますし、
一つの答えだと思います。
文中に、死ねば楽しい感覚や苦しい感覚自体が働かなくなるとありましたが、
楽しくも、辛くも、嬉しくも、悲しくもない、
何もない世界に行けることが救いの道につながりませんか?
自殺する人は、
『もう何もしたくない、何も考えたくない』と思って自殺するんだと思います。
(もちろん万人ではございませんが)
そういう考えの人たちが自殺したら、
『救われた』と言えないでしょうか?
全てから解放されて、ある意味で自由になれたと考えられないでしょうか?
せっかく回答頂きましたのに、反論するような形となってしまい申し訳ありません。