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阿弥陀如来の四十八願について

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こん○○わ。初めまして。よろしくお願いします。
さいきんとある方から聴いたのですが、阿弥陀仏の48願というものがあるとききました。
今流行りのアイドルのような数字なので、気になり調べましたが、
センターの願いとでもいうべきでしょうか。
第18願を浄土宗の法然氏は一番大切と言ったそうですが、インド語の原文にはない部分で書き足された部分だという話をききました。
私も聞いた話なので、詳しいことは知りませんが、
このことが本当なら、これはどのように捉えれば良いのでしょうか??

お坊さんの皆様お願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

信じるとは人が言うと書きます。

私は信仰者であって、学問研鑽は大切ではありますが、基本は阿弥陀さまの存在、またその救いを信じています。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信じるほかに別の仔細なきなり。 歎異抄

よきひと、とは師僧にあらせられる、源空和尚さま、法然上人さまのことでございます。親鸞聖人は、お師僧さまの法然聖人の教えを信じるほかはないと、おしゃっています。

お釈尊さまの滅後100年頃までは口伝えであった教えの「法」と規則の「律」がそれら「法」と「律」は、「法」を集めた「経蔵」と「律」を集めた「律蔵」になったとつたえられています。浄土教の根本聖典である、『仏説無量寿経』の阿弥陀さまの請願には異訳があります。二十四願系統と四十八願系統とに大別は前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想と考えられています。阿弥陀さまの誓い、それは衆生済度、この一言に尽きます。そのための極楽浄土を造られた。死んだら一体どこに行くのか?阿弥陀さまが極楽浄土に連れて行ってくださる。これが浄土教、浄土思想特徴です。
その解釈うんぬんよりも、いまこうして教えとして伝わっているということを、味わせていただくことが、大切であって、仮に後から追加されたものであったとしても、これは仏さまのご意思として受け止めています。

たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。 歎異抄

かりに法然聖人が間違っていて、念仏が地獄に堕ちる業であっても構いません。もともと、修行に励んでも悟ることのできないお粗末な自分ですから、云々。

どうか、お敬いのおきもちを大切にしていただけたら幸いでございます。
龍樹菩薩さまを龍樹氏と、お呼びしませんし、真宗、浄土宗で教えを受けたものにとって、違和感を禁じえません。
浄光寺

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浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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私にとっては、

仮に、インド語の原文にはなく書き足された部分であるとしてもどうでもよいことです。

そもそも仏教の開祖お釈迦様が、書かれたお経、お釈迦様の直筆のものというのはありません。

なぜならお釈迦様の説法を記憶しておられたお弟子さん方が、お釈迦様亡き後、『私はこう聞いた』『僕はこう聞いた。』と言いながら教えを残す為に書き留めておかれたのがお経だからです。

そして阿弥陀様の事が説かれたお経様はお釈迦様が亡くなられてから約500年経って生まれたお経と言われています。

それがゆえに
『浄土の教えは仏教ではない』
とおっしゃられる方もおられます。

しかし、私は
『仏教は学問ではない』と言いたい。

学問的に見れば、お釈迦様の教えは、お経は所詮弟子たちが覚えていたことを書いたものであり、直筆でないなら釈迦の本意は伝わっていないかも。とか、そもそもお釈迦様はいたのか。とか、いくらでも疑い、いくらでも議論することはできるでしょう。

しかし、それは宗教ではありません。
信仰ではありません。

学問的見地から見た仏教でしょう。

それこそいくら科学は進み、検証をしてみてもお釈迦様の実在さえ、その時代にインドに生きていなかった者には証明できないことでしょう。

疑いだしたら、学問的に考えていたら、こんなとこから疑わなくてはならないのです。
現代人の悲しいさがでしょうか。

私達のわからね範疇、いや私達は実は何1つ本当のところ、真理をわかっていないのです。無知で愚かな私達です。
そんな私達が素直に、赤子のような心になって、一人間に戻って、
ただお釈迦さまを、阿弥陀さまを、観音様を、お薬師さまを、
信じ、仰いでいくのが信仰なのです。

仏教を学問と捉えるのか、
み教えといただき、信じ仰いでいくのか。

そこには大きな違いがあると私は思います。

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生きるための仏教 生身の私達のための仏教 私たちが人生を歩む上...
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他人事ではないのが仏様

明石家ひらめ様

釋 慧心と申します。

拝見させて頂きました。

私達は、私の眼で世の中を見ております。

私の眼というのは、私の価値観なり私の分別と言えます。
私の眼は、迷いの眼です。
迷いの眼が苦しみの種まきをしております。

紙面が足りませんので、この行はまた宜しければ何れ新たにご質問ください。

赤ちゃんが、暗い部屋で夜泣きをしていたら、お母さんはどのように接するでしょうか。

あなたちょっと、何で泣いているのか、ここに座って説明してください。
このように言うでしょうか。

どうしたの?お腹空いたのかな、暑かったね、寝苦しかったの?おしっこかな?お腹痛いの?よしよし、と汗を拭いて呼び掛け、あちこち撫でてあやして授乳させてくださるんだと思います。

赤ちゃんの暗闇を破るのは、まず声です。
どうしたの?お母さんだよ。
という声が、赤ちゃんの不安を打ち破ります。

それから、ここが痛いの?お腹が空いたの?とあれこれと助けるお手立てを幾通りも、
時には、赤ちゃんの言葉で、赤ちゃんの方まで来て、手を差しのべます。
泣き止むまで、何度でもいつまでも終わりません。
絶えず、離れず、見放さず。

私の暗闇を破る為のお手立てのお姿が、阿弥陀如来です。
四十八回、ここが痛いの?あそこが痛いの?大丈夫、大丈夫と手を差しのべてくださったお姿です。

私の嘆き、無明を打ち破るお手立ての根本としまして、南無阿弥陀仏のお名前にお仕上がりに成ってくださり、念仏の声となり私の口に届いてくださります。

南無阿弥陀仏のお念仏は闇を打ち破る声です。
それを第十八願と言うております。
オハコや野球のエースナンバーの18はここからきています。

法然様はお念仏の元祖です。
余談ですが、元祖○○ラーメンというような時の、元祖とは、法然様の元祖大師という大師号からきています。

全く、唯称寺様の仰られる通り、信仰は理屈では御座いません。
私が心から救われなければ、画に描いた餅です。
疑いの心が晴れて、心底礼拝し、仰いでいく心がおこることが大切です。

法然様は、浄土宗の人は愚者になりて往生す。
と教えてくださります。

阿弥陀様の揺るぎない智慧の光に、私の愚かさを知らしめて頂くときに、
阿弥陀様のおはたらきの確かさを仰いでいく歓喜の心に恵まれるのだと私はお聞かせ頂き毎日喜んでおります。

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浄土真宗本願寺派です。 有髪に非僧非俗、 肉食妻帯(現在は独身ですが)...
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有りますよ、補足

インド語というか、サンスクリット語という昔のインドの言葉の原文には第18願はちゃんと書かれていますよ。
ですから安心して南無阿弥陀仏とお称えくださいね。

補足
サンスクリット語の原文の第18願と第19願を中国語に訳す時に、訳したお坊さんが理解し易いように一旦ひとつに纏めて、それを中国語の第18願と第19願と第20願の3つに分けて訳しました。
ですから、書き足されたという方が居られるのかもしれませんね。
ですが、足した、のではなく原文の第19願にある言葉を用いているので、適当に足したわけではありません。
ですから、中国語も第18願だけでなく、第19願と第20願も一緒に読んで貰えたら、よりサンスクリット語の原文の意味に近づくと思いますよ。

法然上人にもしサンスクリット語の原文を読む機会があれば原文の第19願を一番大切に推奨したのではないかと思います。

いずれにしても内容は、悟りに至りたいと思い、阿弥陀仏を信じ、極楽浄土への往生を願い、南無阿弥陀仏と唱え、現世でできる範囲で善い行いをしてその功徳を阿弥陀仏に送ることで、臨終の際には阿弥陀仏自ら菩薩様達を従えて迎えに来られて、臨終の苦しみを取り除き、極楽浄土に連れて行ってくれる、という阿弥陀仏のお誓いなのですね。

南無阿弥陀仏

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

ありがとうございました。
宗教の学問の差という部分が一番しっくりきました。
(では逆に宗教離れも問題では?と思ってしまいましたが

回答していただいた皆様に感謝します

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ