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嫌われてばかり

回答数回答 1
有り難し有り難し 95

高校の頃からいじめられるようになりました。

仲のよかった友達はいましたが、私のいじめの噂を聞くとコロッと態度を変えて、無視されるようになり誰もいなくなってしまいました。

それから人と接するのが怖くて、自分から話しかけられなくなってしまいました。

その後、職場や夫の家族、ママ友などトラブルばかりで人間関係をうまく築けません。

私の性格に問題があると思うのですが、どのようにしたら仲良くできるのかがわかりません。

この頃は落ち込むことが多く、よく眠れない日が続いて困っています。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

トコトン一人で生きる覚悟

私も同じようなものでした。
今でも親友、友達はいると言っても年に数回会う程度です。
本当の強さは仏の教えによって手に入ります。
真実は誰とでも共有ができて、いつでもどこにでもあるからです。
それを知らないと人は、人間という友達がいないといけないかのように錯覚します。
そんな一日中一緒に居なきゃいけないような人間はむしろオニモツです。
敢えて数日間一人の世界を全うしてみてください。
全うするとは、本当にそれに浸ること、なりきること、そこにいながらそこも忘れる事。
徹底すると、友達がいてもいなくても元々一人で大丈夫だったはずの自分に目覚めます。
人間はないものねだりです。
セレブの願いは庶民になってのびのびと暮らすこと、一般人の願いはセレブになって脚光を浴びる事。
Facebookで友達が増えすぎると政治面や好みの面で嘘をつかなければいけないことも出てきます。
独りになれば寂しいと思うようにもなるのでしょう。
ではどうすればいいか。
今あるものの中でそれを親しむのみです。
今日、今、目の前に、そこに、何がありますか。
ウチはTVが壊れて画面も見れません。
画面を除けば自分が映ります。
TVがなくても、自分は自分です。
テレビを見る目玉、耳があるからそれが宝もの、友達です。
外に求めるんじゃないのです。
自分の宝に気づかないとどうしても外の共観者、理解者、同調者を求めるのです。
自分の宝を見つけた仏陀、覚者、自分を明らめた人は結婚しても一人、生き別れても一人、師に分かれても一人、生まれながらに天地でただ一人の存在です。そのたった一人という自覚を深めてください。
孤独とやらはアタマの中の理想設定が生んだ幻なのです。
今、友達がいなかったでしょう。居なくても平気だったでしょう。それが真実です。
周りがみんな同じスマホ持っているからって合わせなくたって、もともとが用が足りているのが人間です。
それがトコトン尊い一人を生きることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答いただき有り難うございます。

友達はいませんが、いつも変わらず励ましてくれる夫と、私とは正反対な性格の陽気な息子がいてくれるだけで、幸せな事なんだと思えました。
もう少し強い心になりたいです。
ありがとうございました。

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