いわゆる「いじめの傍観者」について回答受付中
またも残念な内容で申し訳ないのですが、
いわゆる、「いじめの傍観者」に関してお聞きしたいです。
本日、兄弟とも話したのですが、
一般的に、いじめを傍観することは良くない事とされています。しかし、いじめを傍観せずに対処するという事は、大抵の場合、次のターゲットを自分に変更する行動になると私は思います。
傍観しない事で、確かに現時点でいじめられている子を助ける事はできますが、
それは火中に手を突っ込む行為と似たようなレベルの危険さな気がして、
僕は少なくとも率先して傍観しないようにしようとは思えないし、
周囲の人に傍観をするな、と勧めることもできません。
僕の考え方は、
世間一般の本音として、綺麗事を抜きにして実際に生きていく為の行動指針として
間違っているのでしょうか。
道義的にはおそらく間違っているのでしょうが…。
支離滅裂で申し訳ないです。その上で、是非ともお教えください。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
火中に飛びこまないのもこれも勇気です。冷静に落ち着いて
拝読いたしました。非常に重く、そして誰もが心の底に抱えている「恐怖」に対する正直な問いだと思います。
結論から申し上げます。
「自分がターゲットになる恐怖から傍観してしまう」というあなたの感覚は、人間として極めて正常な防衛本能です。 道義的に間違っているとご自身を責める必要はありません。
仏教には「自利利他(じりりた)」という言葉があります。自分を大切にし(自利)、その上で他者を助ける(利他)。自分が壊れてしまっては、誰も救えないのです。
では、どう振る舞えばよいのか。私は三つの「目立たない勇気」をご提案します。
1. 「沈黙」という名の抵抗
いじめの主導者は、周囲の「笑い」や「同調」を栄養にして増長します。一緒に笑わず、ただ無表情でいること。それは、ターゲットにならずにできる最小限の抵抗です。
2. 「事後的」な心の避難所になる
火中に手を突っ込む必要はありません。しかし、火が落ち着いた後で、いじめられた子に「さっきのは酷かったね」「私はあなたの味方だよ」と、こっそり声をかけることはできます。この「一言」が、その子にとっての絶望を食い止める最後の砦になります。
3. 「システム」を利用して報告する
自分自身の口から言うのが怖ければ、匿名のアンケートや、信頼できる大人、あるいは外部の窓口など、あなたが特定されないルートを使って事実を伝えてください。
「戦う」ことだけが勇気ではありません。「生き残り、静かに寄り添う」ことも、立派な慈悲の形です。
あなたが今、その葛藤を抱えていること自体が、あなたが優しい心の持ち主である証です。どうか、その優しさを守りながら、できる範囲の「小さな一歩」を大切にしてください。


