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入信したくないのは私の心が間違っているからでしょうか?

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某新興宗教の信者の家庭に嫁ぎました。結婚直前に義母からそのことを知らされ、彼に「私も入信しないといけないの?」と確認したところ、「いやなら入らなくていいよ」と言ってくれたのでその言葉を信じて結婚しましたが、地域の信者の方から次々に会合や行事に誘われます。

信じていない者にとってはその場に居ることもつらくかんじるような集まりでしたのでことわると義母から
「なぜ反対するのだ」と言われ
「反対はしていない、お義母さんの信仰は自由です。私にも信仰しない自由があります。彼は結婚前に入信しなくてよいと言ってくれました」というような説明をすると
「それは息子が優しいから言っただけだ」などとしかられましたが、入信しないで30年近くすごしてきました。
最近になり義父が病を完治できず、施設に入居しました。すると信者の方2人がちょくちょく面会にきてくださいます。立派な行いと思いますし、とても感謝しておりますが、だからといって入信をまたすすめられたらいやだなと思ってしまいます。
信仰とは神様とか仏様とかと自分の心がどう向き合うか、ということで、つきあいでするものじゃない、とわたしは解釈しています。また、結婚するまで隠していて後から無理矢理のように入信させるやり方、選挙運動、書籍や新聞などたくさんお金を使わせる事などに不信感を持っていますし入信を勧める時の、「私たちは人として正しい道を進んでいる。あなたは道を間違え真っ暗闇に居るのだから私たちが導いてあげる」という言い方にも抵抗があります。
私は心が狭いでしょうか?人様から非難されるようなことをしているんでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたは間違っていない

仰る通りですね。
そもそも人に無理やり宗教を強要するなんて姿勢は宗教ではなく、エゴですね。
その方が信者獲得につながるからとはいえ、結局、相手の信教の自由を度外視したそういう押し売り態度自体が宗教的ではないということに彼らはまるで気が付いていないのですね。
そういう事を見抜けない弱い人間を洗脳、利用してそういうことこそ宗教だ、正しい事だと思いこませて、本人たちにイイことをさせていると思わせているのですから、それ以下でもそれ以上でもありません。
ヘンなたとえですが世の中、うどん、そば、ラーメン、パスタ、フォー、何食べたっていい。
自分がラーメンが好きで本人が幸せならいいじゃないですか。
嫌がっている相手に無理矢理に勧めることじゃないと思います。
何を食べるべきか、麺か、パンか、ご飯かだって、自分の好きなものを選択する。
うちなんか、みんな違うものを食べています。
それが宗教であっても、それを個人の自由な選択にゆだねさせることこそが本当の宗教心、寛容性、個人の尊重なのです。宗教を語る連中がそれをしないということはそれは宗教ではないという事を自ら語っているという訳です。
日本の伝統宗教はそんなちっぽけな事はしません。
・仏を信じなきゃ救われない
・この宗派でなければ絶対にダメ
・他の宗派邪教だ
いよいよ仏教教団でもそんな事を言い始めるようになったらそれはあくまで仏教をカタった個人思想です。
宗教なんてなくても幸せならそれがあなたの宗教じゃないですか!
あの人たちはそれでなきゃ❝いけない❞って思いこまされている狭いものの見方ですが、そんなものを必要としていない人もいます。そんなものむしろ無い方が幸せな人だってたくさんいます。
むしろそれで障害になるくらいなら、いくら宗教だとか、平和の為だとか言ったって嘘です。
現に、色々な障害が起こっているっていう事は所詮縛られの元です。
アナタはとてもつらい立場ですね。
現在のあなたの幸せや家族より宗教の方を選択しろなんていう宗教は静かにして穏やかなる暴力団と変わらないでしょう。あなたの感性を信じることです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

かぁさん、こんにちは。
丹下師・釈師が回答されていらっしゃいますが、わたしも失礼して。

若輩ながらお坊さんとして、新興宗教系/似たような相談を受けたりいたします。
・気落ちしていたときに友人から誘われて・・・。
・夫は宗教活動をしていなかったが、義理の母(夫の母)がドップリで勧誘してくる。など
後者のパターンにそっくりです。きっとかぁさんはインターネットで同じような境遇の方を発見されていらっしゃると思います。人知れず悩みを抱え、顔の見えないインターネット上にて心情を吐露するお気持ち、ほんとうにお察しいたします。
そんなお話をうかがうのも私たちの役目だと思っております。

さて、わたしへの相談者:後者の方は、だまして集会に呼んだりしながら、勧誘をしてくるそうです。まったく悪びれません。さらに、自分たちは正しくて、あなたが間違っている!と決めつけてくるそうです。

ほんとうの宗教には「内部への疑い」が含まれるものです。この「内部への疑い」が寛容さにもつながるわけですが・・・。
自分だけの世界にいる人たちにとって、外部の人間は非難してもいい対象となるようです。あなたは確かに彼らから非難されたかもしれませんが、その論理は非現実的・非救済的なことでした。
そんな非難をおおらかに受け止められるだけの人間は、あまりいないかもしれません。
相談を受けたときに、わたしは憤り、怒り、いちいち反応している自分に情けなくなったりいたしました。
無理して、かぁさんが受け入れる必要はない。そう思います。

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個別相談可能
臨済宗妙心寺派 陽岳寺 住職 1985年生まれ。 東京都江東区深川出身・在住。 大学卒業後、鎌倉の円覚寺専門道場で修行。 2010年に陽岳寺に戻り副住職となった後「ようがくじ不二の会」を立ち上げ坐禅会、ゲーム部、お茶の会などを企画開催。 昔からお寺はお手繋ぎをしていました。もっとご縁を結んでいただきやすくしたいと思い、結婚相談所を開所いたしました(門前仲町 下町結婚相談所)。 hasunnohaでは、微力ながら考えたこと、思ったことを回答させていただきます。

そこに嫁いだが故の問題。

宗教を軽視しすぎだと思います。
直前に知らされたと言いますが、結婚まで知ろうとしないことも大きな問題です。

あなたは間違っていないと思いますが、そこに嫁いだが故に発生した問題です。

【追記】
言葉足らずで申し訳ありませんでした。
宗教には「正」「悪」「誤」「偽」という風には分けることができません。
信仰しているその人にとってはいいものであるとしか言えません。

信仰は強要してはならないと思いますが、実は僧侶も布教伝道が仕事です。
つまり「うちの宗派はいい。この教えを聞いて欲しい」と広めていくのが務めです。
ある意味では布教=強要になりかねません。
私は浄土真宗という宗派の僧侶であり、浄土真宗はとても素晴らしい宗教だと思っています。
だから多くの人に薦めたいと思っています。
おそらく他宗の僧侶も同じだと思います。
しかし、それは時に強要になるでしょうし他を廃する行動になりかねません。
同じ仏教でも180度違うと言ってもいいほど違いますから、歩み寄ることは大変難しいです。

宗教と宗教は混ざり合う事が難しいものです。
どうしても譲れないものもあります。
結果、自分の信仰だから他人は関係ないとしかできない部分がでてきます。
宗教の違いは実はとても大きな違いなのです。
だから結婚において宗教はとても大切だと言いたかったです。

今さら信仰における歩み寄りを求めても仕方ありません。
やりやすいように割り切るしか方法はありません。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

丹下覚元さま、ご回答ありがとうございます。こんなに早く返答いただけるとは思っていなかったので、PCからはなれておりました。
「現在のあなたの幸せや家族より…」というお言葉により再認識しましたが、夫と私は仲が良く、まさに幸せに暮らしていると思うのです。そこに義母の言った「優しいからそう言った」という言葉を考えに入れると、夫は私に将来の信頼関係のことを考えずに嘘を言った、ということになり、夫婦仲に亀裂が入ることになってしまうので、義母の言葉にはこだわらず、おっしゃる通り自分の感性を信じて、これからも仲良くやっていきます。元気がでました。本当にありがとうございました。

釈心誓さま、長文の質問でしたのに、読んでいただき、ご返答をくださってありがとうございます。
そこに嫁いだが故の問題。まさにそのとおりです。

結婚まで知ろうとしないこと。本当に私は宗教に限らず世間一般のことにもうといぼんやり人間でした。
主人は宗教活動は全くしていなかったので、気づかなかったのです。
あの時結婚をやめればよかったのか?それとも郷に入っては郷に従えと考えるべきなのか?ずっと心にかかえてきました。名前だけ入信して後はのらりくらりかわしておけば良い、という人もいましたが、生真面目な性格ゆえ適当にかわす、などということはできないのです。

信者の方も地域にとけこんで生活してらっしゃる現状では、うっかり周りの人に相談などすると、相談された方は私と信者の方の板挟みのようになってしまいます。宗教についての知識があり、客観性もある方の意見をきくことができたらいいな、と思っていたところにhasunohaのことを知り、質問させていただきました。ありがとうございました。

向井真人さま、ご返答ありがとうございます。
その人たちにとっては大切な心の支えなので、私のほうから批判はしたくないと思っているのですが、
勧誘の時「あなたは間違った生き方をしている」的な言葉を使われると、こちらもいやだと思う理由(つまり相手にとっては批判)を口にしてしまっていやな気分になる、という事がよくありました。
ご返答いただいた事を励みにして、なるべく平常心で、私にとっての大切な物を見失わないようにしたいと思います。ありがとうございました。

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