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真言宗と浄土真宗の関係性について

回答数回答 2
有り難し有り難し 27

真言宗では真理を第十住心として、
全てそこに向かう道の半ばであるように説かれていると、
理解しているのですが、
浄土真宗は第一住心から第十住心の中のひとつなのか
全く別の道なのか、また、たどり着ける真理に違いが有るのか
お教えいただけると有難いと思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

聖道門と浄土門

ぽこたん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

真言宗と浄土真宗の関係性についてですが、主として依拠する仏典が異なるため、この度の問いとして、弘法大師「十住心論」において、特に浄土三部経としてある「仏説無量寿経」・「仏説観無量寿経」・「仏説阿弥陀経」の教えが「十住心論」のどこに配することができるのかというのは、正直、現在の拙生においては分かり得ないというところでございます。

真言宗と浄土真宗の相違については、「聖道門」と「浄土門」が簡単な説明として有名ではないかとは存じます。

聖道門-ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/聖道門

浄土門-ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/浄土門

様々な聖経・仏典についての教相判釈は色々とございますが、私たちが最終的に目指すべきところは、もちろん「悟り・涅槃」であることに変わりはないものであるかとは存じております。

教相判釈-ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/教相判釈

個人的には、弘法大師と親鸞上人が龍樹大師の空思想をどのように捉えたのかというところには興味があり、今後学びを深めていければとは存じております。

また、龍樹大師の論書(それぞれ異説あり)として弘法大師が「十住心論」・「秘蔵宝鑰」を著す上においても重視した「釈摩訶衍論」と、親鸞上人が重視した「十住毘婆沙論」の思想的受容内容からそれぞれの宗旨の相違について考えることが少しなりともできるのではないだろうかとは浅学菲才の未熟者ながらにも存じております。

あとは、主尊として、真言宗・大日如来様、浄土真宗・阿弥陀如来様とそれぞれの体現なされておられる教えが少しの手がかりにもなるのではないだろうかとは存じます。真言宗・密教において阿弥陀如来様は「五智如来」の一尊でもありますので、真言宗・密教における阿弥陀如来様の位置付け、役割について考えてみることも少しくは参考となるのではないだろうかとは存じてます。

補足追記・・浄土三部経において説かれる阿弥陀如来様への「信」へのいざないに関して、「十住心論」が説く各境地においてはどのように捉えることができるか(無理なのか)ということを考えてみるのも一つかもしれません。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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ぽこたん様。

先ずは、当方真言の僧分と致しましてはご相談にご回答します前に、
貴方様が僧分であられるのか、はたまた未得度者で御座居ますか、
此処をお伺いせねば成りません。
何故ならば、弘法大師の御著作『秘密曼陀羅十住心論』をご説明するには、
受者の機根の其れに合わせて解く事が求められておるものですから、お訪ね致します。

また、貴方様の仰る「真言宗では真理を第十住心として、
全てそこに向かう道の半ばであるように説かれている…」と御座居ますが、
此のご理解とて、本来の其れとは異なります事をご理解下さいませ。

なお、貴方様の仰る「浄土真宗は第一住心から第十住心の中のひとつなのか
全く別の道なのか、また、たどり着ける真理に違いが有るのか …」に就いても、
今の段階では、且つ此の場でのご回答は差し控えるべきと存じております。
悪しからずご理解願います。

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おきもち

色々の悩み事がこの世には沢山有ります。 大学の卒論で密教天文暦法を研究致...
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質問者からのお礼

川口英俊 様
浅墓な知識で質問させていただいたのに、丁寧にご返答下さいまして、有難う御座います。
参考に掲載していただいた
聖道門・浄土門・教相判釈を読んで理解を深めたいと思います。

沙門 密富 様
早速の御回答有難う御座います。当方、僧籍では御座いませんが、
画を描いておりますので、色界には在ると思っております。
近代以前は西洋も東洋も宗教と芸術は密接に関わり合っていたと思いますが、
今の時代、芸術の役割として宗教との関わりを再度深めていかなければならないと思っています。
松長 有慶先生の著作「理趣経」を読み、 真言に興味を持ったと言うことと、
実家は浄土真宗の檀家なのでその関係性にふと、興味を持ち、
失礼ながら、乱暴なご質問をしてしまいました。
平にご容赦下さいませ。

「真言宗」問答一覧

愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

真言宗のお坊様

不躾なお話になりますが、お許しください 私は単身者もうすぐ40になります。 福祉の仕事で、専門職として働いておりました。 10数年勤めておりました。やりがいはもちろんあるのですが、お役所仕事と言いますか、毎日の大人同士の人間関係を大切にしてその日を過ごす。そのような雰囲気があります。 ここ最近は無気力な気持ちに苛む事が多くなりました。これについては私生活における大きな悩みも要因でした。少しメンタルの不調が続いています。 今はまたチャンスを頂き、同業他社で働く予定で仕事開始を控えております。 経済的な事もあり、求人を読み漁ってました。その中でこれがやりたいという気持ちも一切湧かず、前職と比べたら給与も安く肉体労働系の仕事など今より条件が悪くなるものばかりです。 働く事は生活のためであるのだから自分の考えでは甘いと思います。 物事を思い詰めてしまうところがあり、何事も見通しが持てないと不安が強くなる特性もあります。 今までの仕事での充足感や必要とされていた感覚を捨てて、異業種に行く怖さがとても強くあります。 そんな中ここ数年、YouTubeなどでお坊さんの話を聴く機会を多く持ってました。 そして生まれ育った環境の影響もあり、真言宗僧侶に興味関心を持っております。 なぜ興味を持ったのかというのも正直なところ、仏教の先人達の教えを学び、自分の人生をより豊かにしていきたい。というのが大きな理由になります。僧侶になれば自分の精神的な弱さも含めて救われるのではないか?と考えました。人のために役立つ事は苦にならないのですが、反面人付き合いが得意ではありません。人間関係の疲れ、俗世から脱出したいというのもあります。 僧侶といっても宿坊へ就職する感じになります。 お坊様からこのような考えについて何かご意見頂きたかった事。 男性社会であるお寺(宿坊)での実際の業務や修行の話を伺いたく相談いたしました 私の勝手な想像ですが、お寺(宿坊)が僧侶としての道を支援して頂ける。これは一生仕える気持ちでそのお寺に就職という事を相手様も希望している。生半可な気持ちでは来て頂きたくない。というのが本音ではないかと思っております 次の内定が決まった福祉の仕事を長く続ける事が、今自分にとっての最適解と考えてはおりますが、この次はお寺で働きたい。とやはり考えてしまいます 何か方向性を示して頂けましたら幸いです

有り難し有り難し 7
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真言宗の僧侶になるには

僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 24
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ