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御真言を唱える時の印を結ぶ事について

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

お邪魔いたします。投稿させて頂きます。

光明真言や大日如来の真言、不動明王のご真言を毎日朝晩と唱えていますが、
その際に、手指にて印を結んで唱えていますが、
一部YouTube動画によると、
「~修行を積んだ僧侶ではない一般の人が唱える時に、無闇に印を結ぶのは宜しくない、万能な金剛合掌にするのが良い~」
というのを見かけました。が、一方で、
「特に問題ない」
というのも見かけます。
当方は、各々情報に振り回されているだけでもあるのですが、
Q:どちらなんでしょうか・・・。考え過ぎですかね?

2024年9月29日 11:25

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

三業に仏印を標す

印というのは人間の自分自分・私わたくしした心を離れた清らかなる仏の様相をあらわすものであり、人が印を結ぶということは、いわば仏の周波数と等しくなっている姿でもあるわけです。(喩えですが)この世界、法界がもともと人間世界の価値や見解をはなれた仏のさま、仏のありようをしております。それを仏の印が標されている姿、一体の三宝とも言います。
自分流にやってはいけないといわれる理由は、本来の意義・真意があるのに、そこをきちんと学ばずにやれば医療でも料理でも我流になるから、きちんと法の内容が明らかになった上でなければ、あらぬ方向に向かうものだから、そりゃぁやらん方がイイという声も当然生まれましょう。道元禅師も、坐禅をするならきちんと仏法の真意をわきまえた指導者の下でやらないのであれば、やらない方がイイとまで言われます。そこは絶対に軽視してはならないことです。
人は人の都合やエゴイズムの領域をやる。だからマインドフルネスもいいところどりなので正しく広まりませんでした。菩提心がない。自分の為にやろうとするからでしょう。
仏とは人のエゴ・自己中心的な見方や自己愛・自己保身をはなれた様子です。
本来の意義から外れてしまえば印も印の功徳、作用、効果がないからこそ、印ということの真意、菩提心、道心をきちんとわきまえた上でそれを行うことが無かったら何のための印なのか?という問いも持つべきです。
道元禅師は仏道の真意、あり方を示した弁道話において次のように説いておられます。
「もし人一時なりといふとも、三業に佛印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな佛印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。」
身口意のアクションにおいて、人間の見解をはなれたる仏の様子をあらわにし、今の本来の静粛性に坐する、処するとき、自己も世界もそのまま仏の様相、法の様相となり、ありとあらゆる一切の自身の内なるあらわれがさとりとなる。
そもそも一般人と僧侶の違い、僧侶と在家の違いとは何でしょうか?
修行を積んだ人と積んでいない人との違いとは何でしょうか?
そもそもどっちも同じ人間です。やたらと在家と出家とを格差をつけたがる人たちにも注意を要しますが、知識として経験として身についているついていないという違いがあるから、そのことに通じた人からならうことがなけば結局自分自己満足にすぎなくなり、菩提心の作用は生じなくなってしまいます。

2024年10月1日 8:21
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

半分解った様なつもりで居てますが、半分は難解でどうにも途中から頭が追いつかず…。
ともかくも有難うございました。

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