回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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理想のリア充らしきものを追うからみじめになる
本当は誰もがリア充です。
アソビ人は遊び人のリア充。
オタさんはオタさんのリア充。
坊主は坊主のリア充。
お好み焼きは鉄板の上でぼてぢゅう。
本当はいつでもリアルを生きている。
リアル・現実の中にドップリ浸かっているのに、思考で分断する。
自分の理想の満たされビジョンを仮に想定し過ぎて実際がそうでないと目の前を見失い疎外感。
自分の我欲の満たされや自分の理想的なリア充イメージを敷かなければ本来のリア充、リア住がそこにある。
そこに目覚めれば満足も不満足もないスニッカーズばりの確かな満足。
今そこに無いものを空想の中で追いかけるより、今そこに有るもの、ある事に親しむ。
これがチャラついていない真のリア充ですよ。
リア住(リアル住職)たんげ☆かくげん
人を祝福できるか否かのポイント
それは欲望を満たしていないと、という意味でしょうか?ああなりたいこうしたい。それが叶うと次のあれやりたいこれやりたいが出てくる。満足できるのは一時、すぐにまた次の欲望が出てきます。苦しみはずっと続きます。
人のことを祝福できるかどうかは、あなた自身の欲望を満足させることではなく、今のままで充分満たされていることに気づくこと。自分自身をしることです。
現代の生活は、とても刺激的でその刺激により満足感を得ているところがあります。何もないことが、暇と感じたり、満たされていないように感じてしまう、そんな生活習慣に騙されてしまうところがあります。
刺激はなくとも何の問題を作り上げることもなく過ごせる事がどれだけ満たされているのか、という事です。坐禅をしていると、とても暇に感じる人もいます。しかし満たされ穏やかな気持ちになる人もいます。そんなところに祝福できるか否かのポイントがあると思います。