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困ったらお寺を訪れてもいいのでしょうか?

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『駆け込み寺』という言葉があるように、なにか迷ったり、困ったりしたらお坊さんの所へ行き、叱咤激励をもらう。
このようなイメージが私にはあります。

しかし、いきなり訪れて事情を説明し、「どうすればいいでしょうか?」というのはお坊さん側からしてみたら少し迷惑じゃないだろうか?という気もあります。

このような素晴らしいサイトもありますし、お坊さんにも優先すべき様々なお仕事があると思います。
しかし、面と向かってでしか話せないことはあると思います。
なので私はいつも「話を聞いてもらいたい。でも……」という状況です。

皆さんはこのことについて、どうお考えでしょうか?
ご回答よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうぞ人生相談におでかけください

 当山では人生相談を行っておりますが、真剣に悩む方を相手にしての〈世間話〉はしません。未熟な行者としては、皆さんの人生に関わる問題について、み仏と一体になる法を結ばずに対応することはできないからです。もう一つの理由としては、1日が24時間しかない中で、ご縁を求める方々への対応はすべて法務であり、法務に対してまごころからお納めいただくご喜捨によってのみ成り立つ寺院としては、各種催しの後などに設ける自然なお茶会は別として、ダラダラと時間を費やせないからです。そして、会話とは互いに相手の人生の一部を分けいただくことだからです。
 考えてみましょう。自分が誰かに話を聴いてもらっている時、相手の人生は時々刻々と休みなく減り続けているのです。もしも自分の都合でダラダラとしゃべっているなら、誰かの人生を捨てさせているだけの時間かも知れません。それは人生そのものへの不誠実というものではないでしょうか?
 当山は、スマホに束縛され、1日のうち何時間も交信に費やしている文化に危うさを感じています。互いが意志疎通を円滑にしていると言えば結構ですが、言い換えれば、別の観点ならすれば、1日24時間しかないいのちを毎日、互いに数時間づつ奪い合っているのです。――自分の都合や気分や不安によって。一方的な問いかけにすら返事をすることが誠実さの表れであるという強迫観念に囚われている精神、すぐに返事をしないと即、人間関係がおかしくなる文化、いずれも異様ではないでしょうか?
 発信は、受け手の人生を分けいただく神聖なものです。だから当山における人生相談では、袈裟衣を着け護身法を結び、心して皆さんの発信を受け止めます。小生はどなたと、いかなるやりとりをする時も、相手様の存在に伴う人生の砂時計を意識しています。
 小難しいことを書きましたが、皆さんの真剣な求めに応じて人生相談を受けるのは寺院の法務であり、行者の務めなので遠慮は要りません。人生相談で確保できる時間は30分から1時間、お布施の金額は決めておりません。どうぞ、日時のお申し込みをしてください。なお、ブログもご参照ください。
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4500.html

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有り難し
おきもち

どこのお寺でも確認すれば受け入れてくれますヨ

そうやって、行動を起こす前に自分で決めてかかってしまう。
ああなんじゃないかな、こうなんじゃないかな…、
それって、ああなんじゃないかな、こうなんじゃないかなっていう、あなたの中だけの思いなのです。
そこ断ち切らないと何も変わりませんよ。(´・ω・`)
迷惑かどうかはあなたが決める事ではないですし、迷惑にならないように訪れることだってできるでしょう。
悩み相談といっても、悩み相談だけをするわけではないでしょう。
ウチでは坐禅会やってますが、坐禅をするかいじゃありません。自分を知り、自分を学び、自分を強くしたり、自分を柔軟にしたり、自分を高める会です。
あなたのここでの質問も、あなた自身がそこで何かを学ぶことがメインであるはずです。
埼玉で良ければお悩み相談でもいいですし、禅会におこしください。毎週はるばると栃木から来られる方もおられます。
マンツーマンで話したければ事前に電話くだされば、お話しもお聞きしますよ。(^<^)

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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