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人に対しての不信感がすごいです。

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有り難し有り難し 13

自分は最近誰も信用できなくなっています。
仕事の関係はもちろん、友人や家族くも自分を悪く言っていたり悪く思っているのではないかと思ってしまいます。
そんなことはないのかもしれませんがどうしてもそんなきがして、、、
そんなとこからくる不満や不安で愚痴や人を責めてしまい、後になってなにやっているんだと後悔しまた暗い気持ちになります。
どうしたらこんな気持ちを穏やかにできるでしょうか?

下手な文章で申し訳ありませんが
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一番信じてないのは自分

自分に自信が無いのが一番問題です。
1自身をもつ。
2自信をもつ。
3自針をもつ。

1
他人は結局自分の比較の対象にならんのです。自分自身を生きましょう。自分を他の人たちから精神的に独立させることです。自分は自分なのだと思って、自分を生きましょう。相手の事ばっかり気にしているから比較して優劣勝敗意識になやんで苦しいのです。
2
人の評価に生きているのではないですか?頭で生きることを止め、情報を優先させず、実質の世界で実行、実現、実質を大事にしていきましょう。自信を持つとは、自転車でいえば手放し運転ができる程、任せ切った状態。そのためには呼吸や脈など、自分の意思とは無関係の、自分の命の働きに身を任せる事です。それが一番の自信になります。
3
自分の方向性をしっかり持ちましょう。行くべき方向は考えの世界ではないのです。現実の事実、昨日でも明日でもなく、今。今日、こんにち。目の前、目前、ここ。

仏教は端的に言えば、自分の考え、自分の独自の我流、自己流のものの見方からの卒業です。
如何に自分が、他人の評価や、他人の目を恐れていて、考えの世界の住人になってしまっているかを感じましょう。
そしてそれは改善できます。
自分が人の事を想っているのは、自分の思いなのです。相手や外を変える一つ要はありません。
自分の思い方だけ一か所だけ変えればいいのです。
「アイツらが、俺のことを、悪く言っているんじゃないだろうか」…、という思いはあなたがやっているのですから。
もう一度申し上げます。
「きっと、オレの事、こんな風に悪く思っているんじゃないか?」って思っているのは、あなたの中の、あなただけの独自の思いです。
やっているのは全部自分。
つまりあなたは人の目を気にしてくるしんでいるというより、自分の自我意識が過剰故に苦しんでいるのです。そこを抑えましょう。
考えごとのペダルをこぐことを止めましょう。
思いのペダル、考え事のペダルをこげばこぐほど、頭の中に情報ガスが蔓延します。
考えて解決するならばもうとっくに解決しているはずです。解決しないという事は、解決する方法が間違っているだけです。
それが考えのペダルをこいでいるという事です。その考えのペダルをこぐのを止めるには坐禅が良いと思います。坐禅会に参加されることをお勧めいたします。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自分を信じる。そうすれば、次に繋がる。

人を信じることができないのは、自分を信じていないからと心得ます。

きっといままで、「自分には無理だ。できない」或は「まだ本気を出してない」
として、やり過ごしてしまい、それが引け目になって、足を踏み出せない。
そんな状態なのかもしれません。

失敗を恐れたり、評価を恐れる前に、「まずやってみる」ことです。

小生は、この世に失敗なるものはひとつもないと思っています。
すべては「次への過程」です。

評価などというものは、ひとによって千差万別です。
千差万別ある、ということは、どれも実は「言い得てはいない」とも
言えるのです。

大事なのは、自分が成したことはすべて次につながるものだとして
自信をもって務めることだと存じます。

そうなれば、「不信感」そのものの必要性がなくなるのです。

あなた様の日々が安らかに、自信に満ちた生活が送れます様、
祈念申し上げます。さちあれさちあれ。合掌

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おきもち

質問者からのお礼

ありがたいお言葉ありがとうございます。
おふたがたの言葉を胸に毎日を頑張ってみます。

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