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資格試験に失敗してしまいました。

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私は大学卒業後1年間資格取得のためアルバイトをしながら勉強をしてきました。先日試験があり採点したところ不合格の点数でした。
私の家は母子家庭で母は苦労しながら大学に通わせてくれました。私も少しでも負担が減ればと思い奨学金を借りました。
なのに今回このような結果になり母に大変申し訳なく、親不孝者だとつくづく思いました。母は来年も受けてみたらとは言ってくれました。しかしまた落ちたら…と思ってしまう自分もいます。心が重く辛いです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

失敗のままにさせておかない

失敗した…、と思うから心が停滞するのです。
こう考えましょう。
この失敗は、
学びになった。
経験になった。
力になった。
軌道修正の場になった。
そして、まだ通過地点であり、過程であり、再スタートだ。
何かの終わりは何かの始まり。
とりあえず、評価「落ちた 失敗した」というネガティブな一か所にしぼらない。
学んだことだってある。落ちてる人だって他にも沢山いる。
その中で、私はいつまでもクヨクヨしているべきだろうか。進まなくちゃいけない。
ならば、一刻も早く、次に向けて一歩を踏み出して、心残りや悲しみに縛られないようにしなくちゃ!
お母さんには素直に謝ってみましょう。決してあなたを責めることはないはずです。
あったとしてもそれはあなたに何と言っていいか初めての経験だから分からないだけです。
世間で立派な人たちは、みなイチロー、二浪していますし、挫折感を味わったからこそ成功している人もいます。今のひと時の状態を人生のジ・エンドだと思わず。
落っこちたって、病気になったって、フラれたって、ウマくいかなかったって、ただ、自分の思い通りにならなかったちゅうことがあるだけで、それも学び。
その後も続いていくのが人生です。
続いていること、転じている事に目を向けましょう。
あれ、さっきほど、もう落ち込んでいないでしょう?
それは、あなたが一歩踏み出したからです。一歩踏み出すことができれば、心はちゃんと動き出します。
よく頑張りました。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

現実は現実として受け止めましょう

とこさん、ご質問ありがとうございます。

お母さんの苦労にも報いたい。

アルバイトをしながら勉強した自分の苦労も実らせたい。

きっと、是非とも合格を、という意気込みでの受験だったのだろうと思います。

発表が出たわけではないようですので、それを待ってということもあります。

できなかったと思っていたのに合格ということも、あります。

しかし、「不合格」という事実が出たならば、それは動かすことのできない事実です。

来年の受験を勧めてくださっているのであれば、

この事実をきちんと受け止め、分析した上で、努力を続けられるというのが最上のように思われます。

あなたの心の重さを、私も想像致します。

「天命に安んじて人事を尽くす」(清澤萬之)という言葉もあります。

どちらの結果になるかは、仏様にお任せです。

でも、最善の努力を致しましょう。

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個別相談可能
真宗山元派上西山正善寺住職

失敗したって、親不孝じゃない

はじめまして。亀山純史と申します。今回の質問の中で、自分を親不孝者だと言っていますが、決してそんなことはありません。お母さんは、あなたのアルバイトをしながら勉強に打ち込んだ姿を見て、また来年も頑張ったらと言ってくれているのです。お母さんはそのようなあなたのひた向きさを喜んでいるのではないでしょうか。もちろん、試験に合格すれば、それは最高に喜ばしいことであることは確かです。そして、それに加えて、あなたのお母さんに対しての思いやりが、お母さんには十分に伝わっているのではないでしょうか。だからこそ、苦労しながらも、あなたを大学に通わせてくれたのだと思います。
人生には失敗はつきものです。そして失敗をするから人は成長します。何もかも順調にいく人生であったならば、自己中心的になり、他人からの思いやりの心など感じることが難しくなるでしょう。様々な環境のもと、全ての人が自分の夢の実現に向けて何年もかけることは難しいことですので、私から来年も頑張りなさい、とは言えません。でも私のまわりには、5,6年かけてやっと学校の先生になったという人がたくさんいるのも事実です。どうか、自分の納得のいく進路を見出してください。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

質問者からのお礼

相談を親身に聞いてくださりありがとうございました。まだどうしてもふと悲しくなってしまいますが、気持ちを切り替えて今できることをやって進んでいけたらと思っております。本当にありがとうございました。

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