宗教の悩み
ご無礼な表現が含まれる文章があるかも知れません。
もし、不快に思われたらごめんなさい。
質問ですが、
私は、クリスチャンの家に生まれました。
ですが、私個人は、キリスト教の教えよりも仏教の教えに癒しを得ます。(勿論、キリスト今日の教えにも良い教えが沢山ありますが。)
そこで、私は、キリスト教の教えも尊重しつつ仏教の教えを心の支えに生きていきたいと思っています。
ですが、どうしてもその前にお坊さんに質問したいことがあります。
仏教では、欲望を煩悩と呼び、否定しているように感じますが、
私は、固執してしまうことは良くないとは思いますが、ある程度の欲望(あれしたい、これ欲しい、それ食べたい。)は生きる活力になるので、必要ではないか?
と考えます。
またアダルトなビデオも観ます。
ですので、これからも、自身の欲望を大切にして楽しく生きていきたいと思います。
それでも、弱い人間なので、時には落ち込みます。
そんな時に、仏教を心の支えにしたいと思っています。
そんな私でも、
仏教の教えを心の支えにしても良ろしいのでしょうか?
失礼な質問かも知れません。
もし、不快な気持ちを持たせてしまっていたら、ごめんなさい。
お許し下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
欲には付かず離れずの女神
その点につきましてはこちらの動画でよくまとめられています。
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm6390012
さっぱり分からんという方がたのために表現を変えて書きますと…
あれしたい、これ欲しい、それ食べたいという一次的な欲求は進化の結果であり、生物として当たり前な反応です。いわば人間の中にある自然界の一端とも言えるでしょう。これは煩悩としてカウントされていません。
これに対して人間の心が一歩進み、もっとやりたい、もっと欲しい、もっと食べたい、これらのもっとに当たる二次的な欲求が煩悩です。これを渇愛(かつあい)と呼びます。十二縁起という教えの中で説かれています。
キリスト教で愛と言えば三位一体の愛のように良いものとして扱われますが、仏教で愛と言えばこの渇愛を指し、苦の原因とされます。キリスト教の慈愛に近い単語は慈悲(苦を抜き楽を与えること)が当たります。
アダルトビデオ?見れば良いんです。見ないで性欲のコントロールができなくなる方がよっぽど問題です。仏教は人であることを放棄して超能力を得るヒンドゥー教やジャイナ教、道教の仙人、そして純潔を保って巫女になる神道とは違うのですから。ただし当然、 毎日疲れが出て仕事に差し障りが出るようだったり、余裕資金で収まらないような見方は見過ぎです。性欲そのものとしてくくるなら根性で我慢するのではなく、食事の内容などの生活習慣から調えていくことになりますし。要するに手当たり次第拒絶するのではなく、用法用量を守りましょうということですね。
生きることへの執着さえも煩悩
煩悩は生きる活力になる場合がありますね。
それもそのはず。
煩悩の大ボスは、生きることへの執着、渇愛なのです。
生き物は必ず死にます。
それがあたりまえ。
なのに、私達はまだまだ生きていたいと思っています。
だから悩み苦しみが増えるのです。
欲・怒り・怠け・プライドなどのあらゆる煩悩は悩み苦しみです。
そのような煩悩は、生き物には必ずあると言ってもよいでしょう。
仏教では、神様でさえも生き物だから、神様にも煩悩があると考えます。
神様にも煩悩があるのだから、私達に煩悩があるのは仕方ないのです。
それでも、悩み苦しみの原因が煩悩だとわかっているだけでも、人生はかなり快適になると思います。
どんな宗教を信じている人でも、自分の欲・怒り・怠け・プライドなどに気づき、それを制御しようとするなら、悩み苦しみを制御できるはずです。
ですから、ご安心ください。
そして、いつか、生きることに本当に満足しきったら、もう充分に生きたのだから、生への執着さえもなくなり「成仏」できるかもしれませんね。