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転職したいけど…

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現在の職場で働き始めて7年目になります。

2年くらい前から社風や職場の雰囲気になじめなくなり、毎日辛くて転職したいと思う気持ちが強くなってきました。

子供の幼稚園入園を控えており、転職により一時的にでも収入が減ることに躊躇いがあります。しかし、収入のためだけにと割り切って、仕事にやる気を出せず職場にいるのも、毎日気持ちが辛いです。

転職に踏み切るか踏み止まるべきか悩んでいます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

納得するまで悩みぬくことが大切です

亀山純史と申します。小さなお子さんをかかえて、転職すべきかどうかは、大変な決断であろうとか思います。これから私なりの回答をさせていただきます。
今ここに、転職をしたいと考えているあなたがいます。それは今の職場に思い通りにならないことがあるからです。そして、もう一人のあなたがいます。そのあなたは、転職をすれば、新たな思い通りにならないことが生じる可能性があり、それを受け入れることに不安を感じています。このように、「思い通りにならないことを、思い通りにしたいと思う」ところに、苦しみが生じます。「思い通りにならない」のは、この世は縁起の世界であり、様々な因縁によって物事は成り立っているからです。それを自分の「思い通りにしたいと思う」のが、私たちが抱える煩悩(我執)なのです。
ですから、この苦しみを乗り越えていく道は、あなたの外にあるのではなく、まさにあなた自身の中にあるのです。そしてその乗り越えていく道は、あなた自身がこの「思い通りにならないこと」を、いかにして受け入れていくかというところに開かれてくる道なのです。
では、「受け入れる」とはどういうことでしょうか。それは「思い通りにならないこと」に対して、「思い通りにしたいとは思わないこと」です。今回のご相談の場合、転職をしてもしなくても、そこに生ずる「思い通りにならないこと」を「思い通りにしたくてもできないものである」と自分自身が納得するまで悩みぬくことが大切だと思っています。
あまり具体的なお話が出来なくて申し訳ございませんが、お体にはお気をつけて、少しでもご参考になれば幸いです。

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有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

仕事中にスイッチをOFFにすべきこと その1

チョット別視点から回答させていただきます。('ω')
まず今の状況の中であっても、他であってもアナタ様の苦しみ状態が無くなる事が最優先であると思います。
「ああ、やらなくちゃいけない」っている中で仕事するのって本当に楽しくありませんよね♡
埼玉の山寺の葉っぱ地獄の万年庭掃き小僧の私は庭ばかり掃いていました。
「こんなことばかりしていていいのか…」
ある時私は農家の方、数人の話を聞く機会を得ることがありました。
「およそ農家や漁業の方々のような主に大自然を相手に作業する仕事をしている人は、人間を相手にされている方々より、たとえば作物が思うように育たなかった時などに、良い意味で諦めがついている」という事を感じました。あくまで主観です。反対に人間関係を中心とした仕事をしている方々は、相手が大自然ではなく人間なので、人間の都合や要求によって左右されることが多いがために、それによって望ましくないことが生まれれる、ということを感じました。あ、大自然を相手にするのってイイなぁ、と思いました。
ところが私が庭掃きでホウキを手にしているといいう事は、大自然を相手にしていながらも、自分の都合を優先させて、大自然相手にブーブ―言っていた人間的態度、ではありませんか。
つまり、相手が誰であれ、どんな状況であれ、人も物事も家族も事務仕事も自然に対してでも❝わたくし化させないモード❞❝自我モードoff❞でいることはものすごく大事なことなのです。
人間はちょっとしたことがキッカケで❝我❞のスイッチがONします。
何でもない時は何でもなかったことが我のスイッチがONするだけで急に、相手や物事に不都合を生じさせてしまうのです。この一点にだけ今日は心のセンサースポットライトをONしてみてください。
それでもって仕事に従事される中、物事をワタクシしている時の心苦しさと、「ワタクシ」なんてケロッと忘れちゃっている時の状態(たとえば今これをご覧になっている時)はどうして、楽なのか=我が起きていないから、という事を理解し、その状態をキープするが如くにお勤めしてみてください。
自分上手になれます。あまり問題を問題化させずに過ごせます。('ω' )仕事かえるのも大変でしょうから視点を変えて楽しみながらいってみましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事を読ませていただき、縁起の世界の中で、私は自分の力で状況を変えようと(変えられるものだと)苦しんでいるのかもしれないと思いました。
苦しみは自分の中にあるということに気付かせていただき、ありがとうございました。
目の前が開きかけているような感じはありますので、時間をかけて乗り越えていきたいと思います。
何度もお返事を読み直しています。
本当にありがとうございました。

丹下様
周りは自我スイッチONの方が多くなかなかストレスフルな環境ですが、自分はOFFにして、同じ土俵にのらなくていいんだ…と思いました。 気持ちが楽に、上向きになりました。自分上手になれるようやっていきたいと思います。
本当にありがとうございました。

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