ポリシーを持ちたいです
もう既に同じ質問が投稿されているのでしょうが、「ポリシー」という言葉で引っ掛からなかったので質問させて下さい。
私は人から「内面が空虚だ」「素直過ぎる」と言われます。どうやら人の言うことを鵜呑みにし過ぎるようなのです。考えてみればそのせいで他人の言うことにいつもビクついて怯えてばかりいます。他人から否定されるのが怖いのです。騙されたこともありました。
他人になんと言われようと「それがどうした、自分は自分だ。我が道を行く」と言い切れるポリシーを持つにはやはり宗教を学ぶしかないのでしょうか? 我ながら愚問かとは思いますが、答えていただければ有難いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
持とうとして持つものではありません
自分を飾るためにポリシーを強調するような人は自己中心の頑固者ですから褒められたものではありません。逆に日本史上、もっとも我が道を貫いた人物の1人である織田信長から学びましょう。
今川義元の軍が攻めてきました。さて、どうしましょう?答えは「ンなモン知るか!」です。理由は『判断材料が何もないから』。この段階で自分のポリシーによって動くのはただの博打です。
こんな情報が入ってきました。「敵の兵力はこちらの5倍〜10倍」。するとこうなります。「こりゃあ正面から正攻法で戦っても無駄やね。降伏するか、戦うなら籠城して援軍を待つか、一か八かで奇襲するかしかないね。」ハイ、判断材料がたった1つ出てきただけで「ンなモン知るか!」状態からプランが3つに絞れました。スンバラシイ!
さらに考えてみると…「援軍ってどっから呼ぶねん…反対側の斎藤家も北畠家もウチと紛争中やないですか!」ハイ、判断材料が1つ増えて2択に絞れました。さぁ、降伏か?奇策か?どうするどうする???
するとこんな情報が!「今川の大将が場所バレしました。しかも敵はV字型に展開してるから、真ん中突っ切れば他の敵を無視して敵の大将をピンポイントで狙えそうな感じ!」奇襲でなんとかなりそうなら、降伏する必要ありませんよね!かくして織田信長は騎馬隊でスピード勝負に出まして、あとは皆さまご存知、真ん中ぶっちぎりの桶狭間。
自分で決めるというのは、実は自分のポリシーを持つということではなく、判断材料を探すことです。織田信長ほどの人物こそ、判断材料と判断材料を結び付けて『自然と出来上がる』結論で動きます。これを判断と言います。客観的に、自然と導き出された答えだから『他に選択肢が無い』→『誰がなんと言おうとやるしか無い』となるわけです。
心は器です。器に判断材料をたくさん盛り込み、いかに組み上げるかが問題というわけです。そして発想の仕方として判断材料の組み上げ方に個性が現れます。それが積もり積もって結果的にポリシーになるわけです。
宗教を学べば判断材料の組み上げ方にモデルを提示してくれます。お釈迦さまならどう組み上げたかという考え方を学ぶわけですから。つまり考え方の引き出しが豊かになります。20代前半の修行僧でも自分の2-4倍生きていらっしゃる方々に法話できるようになるくらいですから、お釈迦さまの引き出しは凄いですよ。
心を柔軟に
拝読させて頂きました。そうですね・・・ポリシーですか。確かに自分はこうだ!と言えるものがあると強い気はしますね。流されずに生きていけるようにも思います。
私はポリシーというか・・・自分はどうやって生きていくか、何を信じて生きていくかだと思いますが、あまり堅苦しく考えなくてもいいのではないかと思います。
確かに人に騙されない為とか人から頭ごなしに説教されるのは嫌な事かとは思います。
そうなんですがやはりその方それぞれの成長や年齢にもよりますので、できれば柔軟なお考えをお持ちいただいた方が良いと思います。
人間生きているうちはどんなことも学びですし、いくつになっても成長ですし修行ですからね。
コチコチに硬くならずに柔軟になんでも受容し、そこから何でも吸収して広い心を持てることが人生としては素晴らしいのではないかと思います。
宗教も確かに信仰を深めて己を成長させてくれる人生の指針となりますから良いと思いますね。
私はあなたがこれからも素敵な縁に恵まれてその絆からご成長なさり素晴らしい人生をお送り頂きたいと思いますしそう願っています。あなたのこらからの人生が人として充実した毎日であります様にとお祈りさせて頂きますね。がんばってくださいね。
質問者からのお礼
お礼を申し上げるのが遅れてしまったこと、お詫びします。
個人的には織田信長のエピソードが身に沁みました。なるほど、判断材料を沢山持つことが大事なのか、と。目を開かれたような思いです。これ以上のことを書こうかと思ったのですが、また別途に書きます。有難うございました。