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年齢と共に友達が減っていきます

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小学校5年の時にイジメにあい、約半年間学校で一人ぼっちの辛い時期を経験しましたが、その時期以外は常に周りに友達がいて、家族との思い出が薄い代わりに友達と過ごした楽しい記憶が沢山あります。

しかし、35歳で結婚した頃から、他人の心の中が見えるようになり、(お陰で主人の浮気も直ぐに見抜けるようになりましたが)、妬みや嫉妬など、ダークな面が気になるようになりました。と同時に、自分にもダークな部分がある事に気づき、それが徐々に大きくなっている気がします。

30歳位の時、親友から「いつも頑張り過ぎだから、もっと力を抜いたら」と言われ、人間関係も頑張り過ぎないように行こうと決めました。

今は、ダークな面の大きい人を避け、心の綺麗な人を友達にしようとしているのですが、自分も含めて心のピュアな人はなかなかいなく、気付いたら夫婦もしくは1人で過ごすことが多くなりました。

ちなみに夫婦でテニスを趣味にしており、主人は常にテニス仲間と過ごしていますが、私は練習が終わったら、さっさと帰って来る事が多いです。主人から「一緒に飲み会に行こう」と言われるのですが、行くと心が疲れるので、誘いを避けるようになってしまいました。

疲れるくらいなら付き合いたくないとは思いますが、あれだけ友達と仲良く遊んでいた私が、ここまで変わってしまって怖いです。今後、どのように生きていけば良いでしょうか。何か考え方を変えることが必要であれば、アドバイスをお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人の醜い部分は仏様にお任せ

亀山純史と申します。浄土真宗の立場からの、私なりの回答を述べさせていただきます。
人のダークな部分が気になって仕方がないようですが、人にダークな部分があることは普通です。もしも、一切このような部分を持たない人がいたら、かえって気持ち悪いと思いますし、そのような人には、宗教は必要ないかもしれません。親鸞聖人は悪人こそ、阿弥陀如来の救いの目当てであるという悪人正機を説かれました。つまり、あなたの言葉で表現すれば、ダークな部分を持った人こそが、仏様の救いの対象である、ということです。ですから、仏様の世界から、妬みとか嫉妬という人の嫌な部分を包み込んでしまう大きなはたらき(力)が、私たちには働いているということです。そうすれば、あなたが気になって仕方がない人の醜い部分は、仏様にお任せしておけばよいのです。仏様はそのような人の醜いあり方を私たちに明らかにしながら、そのままで私たちは救われていくことを教えてくださっています。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

自分を生きましょう

一度「主人」と呼ぶのも止めましょう。
あなたはあなた。独立存在。
すべての縁を放棄して、本当に誰と居いても「おのれ一人」でいられる道を歩んでください。
友達もそこにいないならば、いない時はいなくても平気になる。
年がら年中、ベッタリいる友達は要らんのです。
「世の中に交わらぬとにはあらねども、一人遊びぞ我はまされる」
良寛さんの歌です。
私は世の中に全く関わらないという訳では無いけれど、人間は究極的には独りで自分を生きる事が最上なのである、という意味合いです。
他人さまと居たとしても私は、私の本質としては一人です。
もちろん心の通い合いはあります。
ですが、天地にただ一人の一箇人。
孤独でも何でもない独り、一個人、一己人、一箇人です。
まだ、どこかに自分が誰かから必要とされたいとか、誰かの心を求める気持ちがあるんじゃないでしょうか。今現時点でご主人とそういう状況ならばあなたは、トコトン一人、壱人、独りの道を歩まれるべきです。別に離婚しましょうと言う意味ではありません。真の夫婦関係はそれによって築かれるものです。
お釈迦様も、道元禅師も、そういう生き方をされたのです。お釈迦様の家族だって出家した。子供だって出家した。家族でありながら「家」に縛られる関係を捨てられたから幸せになれたのです。
本当に「天地にただ一人」を自覚して、本当に、大平凡の自分を生きるのです。
私にはワイフも子供もいますが、お互い仲良くしつつ、大平穏、大平凡の一己人を歩んでいます。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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